イザヤ44:21−23/フィリピ1:3−11節/詩編125:1−5
フィリピの信徒への手紙1章8節に、「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と書かれています。ここでの愛という言葉は、愛情のことです。親が子を愛しく思う心、感情あふれる憐れみの心が語られています。
使徒パウロが獄中で書いた手紙です(ローマ説、エフェソ説あり)。フィリピの教会は、パウロの2回目の伝道旅行で、ヨーロッパではじめて立て上げられた教会です。パウロは各地にたくさんの教会を立てあげていますが、献金を頂いていたのはこのフィリピの教会だけでした。お互いの信頼関係がいかに深かったことが、そのことからだけでもわかります。
手紙を書いた目的は2つあったようです。一つはフィリピの教会が、パウロが教えてきた福音からそれそうになっていることへの警告です。3章にそのことが書かれています。4章では教会の内部での仲違いのことが書かれていますから、教会の中で何かが少しずつおかしくなっていたのかもしれません。
もう一つは(これが直接の執筆動機だと思いますが)、パウロの同労者エパフロディトをフィリピの教会に帰そうとしたからです。エパフロディトは牢獄にいるパウロのためにフィリピの教会から遣わされてきた人です。しかし、彼は無理をしすぎたのかわかりませんが病気になってしまいます。2章25節以下にそのことが書かれています。エパフロディトは自分の病気がフィリピの教会に知られたことを心苦しく思っていたようです。「エパフロディト何やってるんだ!」そんな批判の声があったのか。自分で自分を責めることもあったのか。いずれにしても帰るに帰れないエパフロディトがいます。
パウロは、何とかしてエパフロディトをフィリピの教会に帰そうとします。2章28節の「大急ぎで彼を送ります」とあるのは、ただ帰すということではなく、手紙をフィリピの教会に届けさせるという意味を含んでいます。このことは、エパフロディトに使命を託したとも言えますが、あえて帰る理由を持たせたということなのかもしれません。やさしいですね、この手紙。パウロにしては珍しく?やさしい心遣いを感じませんか。
1章3節「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に…」(こういう書き方をパウロは他の手紙でもします)。この手紙には、「思い」という言葉が何度も出てきます。そして「同じ思い」という言葉が三度出てきます。(2;2、2:20、4:2)新約聖書中で、この手紙にしか出てこない言葉です。
パウロにこの手紙を書かせているのは、「思い」なのです。確かにエパフロディトのことが大きな執筆理由でした。フィリピの教会に問題があったからでもある。最初にパウロが伝道した時と比べたら、教会におかしな空気が漂い出しています。3章2節では、「あの犬ども」なんて言葉が使われていますから、当時の教会の大きな問題でもあったユダヤ教の律法(特に割礼問題)との葛藤があったのでしょう。しかし、そのような問題がある中で、パウロは「いつも喜びをもって祈っています」(1:4)と、自らの「思い」を語りかけるのです。
私は、千葉のいすみ市という、海沿いの街の教会で1年間説教をしていたことがあります。礼拝出席者5、6名くらいの小さな教会ですが、創立110年以上の教会です。かつては幼稚園があって、子どもたちが教会にぎっしりいました。街の有力者と言われる人たちも集まっていたようです。でも、長い間の分裂があって、幼稚園は閉鎖、信徒もほとんどいなくなりました。
私がこの教会と関わることで初めて知ったのは、小さな教会なのに、お互いがお互いのことをあまり知らないということでした。「なのに」という先入観がありました。小さな教会だから、どんなに助け合い支え合っているのかと思っていたら、実際はそうではなかった。もちろん、すべての小さな教会がそうだということではないでしょう。でも神様が大事、礼拝が大事で、少ない人数が集まってきているのに、それでも互いの「思い」が伝わらない、伝えられないのはどういうことなの?ここで牧師は何ができる?ここでキリストは何を伝えたい?この途切れてしまった、互いの思いを取り戻すためのキリストの思いってなんだ?そのことを、教会という現場が私に訴えてくるのでした。
「互いに愛し合う」と言う言葉を知らない人はいないでしょう。それがイエス様の唯一の掟です(ヨハネ福音13:34)。それは、フィリピの教会にあてた手紙にあふれるパウロの「思い」でもある。でも、私たちはたぶん「自分の思い」は話せても、「キリストの思い」で伝えられないし、また聞けなかったりする。四谷新生教会の皆さんはどうですか?あなたの思いは、イエス・キリストの愛の心で、あの人に届いているでしょうか。パウロは、その「キリストの思い」に招かれている者たちを、「共に恵みにあずかる者」と語っています(1:7)。
教会の衰退が叫ばれています。2030年問題というのがあって、“これまでどおり”がまかり通るのは2030年までで、それからは急速に教会の運営自体が問われるようになると言われています。統計的にいえば、日本基督教団の現住陪餐会員の減少の仕方からすると、2049年には信徒がゼロになると分析されています。
いつか訪れる「キリストの日」。きっと、「思い」がなければすべてはなくなるのです。祈っています。献金しています。奉仕していますと言えることは立派なことだけど、それよりも、イエス様がザアカイに言われたあの言葉、「今日あなたと一緒にいるから」って言葉をあなたが言えたなら。「共に恵みにあずかる者」であることが「同じ思い」とされないなら、教会は立ち続けていくことはできなくなるでしょう。それはキリストの「思い」の教会ではないからです。
イザヤ書44章21節からの神様からの言葉は、今もすべての教会に言われている言葉です。「思い起こせ、ヤコブよイスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。 わたしはあなたの背きを雲のように罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。 」
「思いおこせ」「忘れてはならない」「立ち帰れ」すべて命令形で語られています。
何を思いおこすのか?忘れてはならないことって何だろう?立ち帰る「思い」は私にあるだろうか?それぞれがキリストの思いから問われています。
祈ります。
神様、四谷新生教会を今日まで支え導き続けてくださった神の思いを、いまひとりひとりが我が思いとして受けとめることができますように。イエス・キリストの思いが、私たちの同じ思いとなるまでに、御言葉と聖霊によって私たちを導き続けてくださいますように。キリストの日に備えて、共に恵みにあずかり続ける者として、さらに豊かに喜びをもってあなたの愛の思いを伝える教会へと立て上げられていきますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。