出エジプト33:12−23/Ⅰヨハネ1:1−4/ヨハネ2:1−11/詩編19:1−7
「イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。」(ヨハネ2:8)
今日お読みいただいたイエスの最初の奇跡の話しもヨハネ福音書だけに記されているお話です。
話の中身はとても単純です。最初の弟子が集まってきて3日目、イエスの母マリアと某かの関係のあった家で婚礼の宴会が催されて、イエスと弟子たちも招かれていました。ぶどう酒が足りなくなったことをマリアが気にかけているところを見ると、その婚礼の家との関係はかなり深かった間柄なのではないかと思われます。
「母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。」(3)というのは、マリアが「イエスなら何とかしてくれる」と期待していた様子が窺えますが、その期待とはイエスが何か奇跡を起こしてくれる、超人間的な出来事への期待だったとは思えません。そうではなく極々一般的な会話でしょう。でももし何かイエスが動き出すことを期待して「母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。」(5)のでした。
ユダヤ社会で伝えられているしきたり通りに暮らすためにはけっこう水が必要だったようです。マルコ福音書の7章には「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」(3−4)と昔からのしきたりについて書いてあります。それを考慮すると、それなりの家には必ず水瓶があり、しかもかなりの量をキープできたのだと思います。この家には2−3メトレテス入る水瓶が6個あったと書かれています。1メトレテスは聖書巻末の度量衡(どりょうこう)表に依れば39リットルですから、単純に200リットルほどが常備されていることになります。
イエスはその水瓶に水を満たせと召使いに言い、彼らはその瓶の縁まで満水にしたのです。その水を汲んでみると最上のぶどう酒になっていたというのがこのお話です。ヨハネはこの出来事を「この最初のしるし」(11)とわざわざ理って、さり気なく「それで、弟子たちはイエスを信じた。」(同)と書きます。つまりこの最初の奇跡によってイエスを信じたのは弟子たちだった。言い換えれば、弟子たちが信じるために、あるいは彼らがイエスに従ったその信仰をさらに確かなものにするためにこの奇跡が行われた、と言えるのではないか。
そう思うのは、先週イエスの最初の弟子たちについて考えたからです。
共観福音書と呼ばれるマルコ・マタイ・ルカでは弟子たちをイエスご自身が呼び寄せ招いて、その招きに即座に従って弟子となった4人の漁師たちのことが書かれますが、ヨハネ福音書はそうではありませんでした。バプテスマのヨハネの二人の弟子が、師匠の勧めに従ってイエスについて行くこととなった。その一人がアンデレで、彼は自分の兄弟シモンをイエスのところに連れてきた、それでシモンはイエスの弟子となりペトロと呼ばれるようになったのでした。さらに翌日フィリポをイエスが招いて弟子にすると、彼は友人のナタナエルに「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。」(1:45)と言ってナタナエルをイエスのところに連れて行き、ナタナエルも弟子になったのでした。
つまり、イエスご自身が直接弟子として招いたのはフィリポだけで、アンデレもペトロもナタナエルも、そして最初にヨハネから促されたもう一人も、誰かの証言を聞いてイエスに出会い弟子となった人たちでした。それはヨハネ福音書を最初に読んだ人たちの状況を反映していたからではないかというのが先週のお話でした。
人の話を聞いてとりあえずイエスに会い、少なからず魅力を感じてついて行こうと一緒に歩き始めて3日目。彼らはイエスが行う驚きのわざをイエスの間近でその目で見ることとなった。「それで、弟子たちはイエスを信じた。」。そういうことだったのではないか。
さらに言うと、イエスの一番最初の奇跡であるこの出来事は、実に、ほとんどのひとには知られないままで行われているのです。9節にはこう書かれています。「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、」。この同じ箇所は口語訳聖書ではこう書かれています。「料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)」。召使いたちはこの最上のぶどう酒がどこから来たのか知っています。自分たちが縁まで満たした瓶の水だからです。口語訳聖書ではそのことは括弧書きなのです。つまりこの奇跡の目撃者は括弧書きされているわけです。婚礼の宴会に招かれた大勢の人たちにはこの奇跡は知られることはなかった。彼らはただ婚礼の喜びを共にしていた。物語のきっかけをつくったマリアさえひょっとしたら知らなかった、少なくともその場には居合わせていなかった。喜びの宴が一切も、微塵も、邪魔されることはなかった。みんなが酔っ払ってから最上のぶどう酒が出されたことも余興のひとつのような扱いで、それがどこから出たのかなど誰も気にしない様子が伝わってきます。
ただしかし、このイエスの最初の奇跡は、名前さえも伝えられていない召使い、そして料理がしらとか世話役とか言われるその人、福音書というドラマの中では役名しか与えられていない「召使いA」「召使いB」「世話役」としか書かれない人によって担われた奇跡だったのです。
ひょっとしたらヨハネはここでも、この福音書を最初に読む人たちのためにわざわざそういう場面を設定したのかも知れません。ヨハネの福音書を最初に読んだ共同体に連なる人も、名もなき脇役たちだった。確かに脇役だけれども、脇役がいなければそもそもこのドラマは成り立たない。イエスの弟子であるということはそういうことなのだと、ヨハネは言いたかったのかも知れないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。主イエスの奇跡を間近で見て、しかもその奇跡の担い手の一人とされたのは、名もない召使いでした。しかしその人の手がなければ主イエスの最初の奇跡は起こらなかったのです。神さま、あなたはご自身の救いのご計画を進めるために、人間の手を用いられます。無数の夥しい人がそのために召され、証人とされ、担い手とされて今日までそのわざが語り継がれてきました。そして今またあなたはわたしたちの手も用いようとされておられます。わたしをご用のために捧げることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。