サムエル上3:1−10/ガラテヤ1:11−24/ヨハネ1:35−51/詩編119:9−16
「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア——『油を注がれた者』という意味——に出会った」と言った。」(ヨハネ1:41)
イエスが弟子たちを招かれる場面は福音書にそれぞれ記されていますが、中でも今日お読みいただいたヨハネ福音書はそれがとても独特な話しになっています。
わたしたちが通常知っている最初の弟子たちの話は、例えばマルコ福音書ではこう書かれています。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」(1:16−20)。これはマタイもほぼ同じです。ルカではそもそもイエスの名声が広まっていて、漁師たちでさえその名前は知っているという前提がありますが、それでも「招き」であること、それもイエスご自身が漁師たちを招くということに違いはありません。
ところがお読みいただいたようにヨハネ福音書の場合はそれが大きく違っているのです。ヨハネ福音書ではこう書かれています。「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」(35−37)。二人がイエスに従うことになったのはバプテスマのヨハネの促しに依るのです。その二人のうちの一人がアンデレで、イエスの弟子となった彼は自分の兄弟ペトロにイエスのことを話して聞かせ、ペトロをイエスのところに連れてきたのです。その翌日今度はアンデレとペトロと同郷ベトサイダ出身のフィリポをイエスご自身が招き弟子にします。すると今度はそのフィリポがナタナエルにイエスのことを証ししてイエスの前に連れてくるのです。
わたしたちが「12弟子」と聞いて頭に思い浮かべるのは、やはり先ずペトロと呼ばれたシモンでしょう。マタイ福音書に依れば彼には天国の鍵が授けられ、それゆえにローマ・カトリック教会で初代の教皇とされる人物です。福音書の中で描かれるペトロは少し早とちりだったりおっちょこちょいだったりしてなかなか愛すべき人物像を持っていますが、使徒言行録では主の力によって様々な奇跡を引き起こしたり、異邦人に洗礼を授けたり、大勢の前であるいは自分に敵意を抱いている最高法院の前で力強く証言する人間に変わっています。大祭司の中庭でイエスのことを知らないと3度も、呪いの言葉さえ口にして否定したペトロが、イエスによって赦され新たな使命を託され、それによって変わっていった様が読み取れます。伝説では彼も十字架刑を受けるのですが、イエスと同じでは申し訳ないと逆さ磔にされたと伝えられています。やはり弟子の筆頭に相応しい劇的な人生でしょう。
しかし、そんなペトロにイエスを紹介したのはヨハネ福音書に依れば兄弟アンデレでした。イエスが直接ペトロを招いたのではないのです。他の福音書にはない記述です。ひょっとしたら他の福音書ではペトロの集中させる意図で省かれていたのかもしれません。いずれにせよ、アンデレによってペトロがイエスにまみえるということは、あのペトロでさえ、誰かの紹介なしにはイエスのもとへたどり着かなかったということです。
ヨハネ福音書を最初に手にしてそれを読んだ人たちのことを想像します。イエスが十字架で殺されるという出来事から60年以上の月日が流れています。イエスと行動を共にした弟子たちも、同時代を生きた人たちももう現存していなかったと思われます。そういう中でヨハネの共同体には伝承だけ残っていたということでしょう。生き証人はひとりもいないけれど、イエスの生き様を生々しく伝える伝承があった。その伝承・証言に触れていろいろなひとがイエスと共に生きる道を選んで歩き出していたのだと思います。
彼らをそうさせたのはイエス自身の招きではありません。しかしその人々は皆、イエスのことを伝える証言を聞き、その場に連れてこられ、そして証言によってイエスと出会い、決意してイエスの弟子になったのです。イエスが生きていた時も、殺されてからも、その働きにはさまざまな人が必要とされました。しかもそれはひょっとしたらひとときも完全な集団ではなかったかも知れません。裏切りとか独占とか排除とか、そういう負の側面も内側に持ちながら、しかしそうやって集団を形作り2千年を超えて伝えられてきたのです。
わたしたちもヨハネ福音書の読み手たちと全く同じです。わたしのことをイエスが直接招いたのではありません。わたしもまた誰かの証言を聞き、その証言を聞く場に連れてこられ、そしてその証言によってイエスと出会い、決意してイエスの弟子になったのです。そういう一人ひとりが招かれて、イエスの働きが継承されてきたのでしょう。今わたしたちもその働きに連なるひとりです。ひょっとしたら教会はこの度のコロナ禍によって最も傷ついた集団のひとつかも知れません。しかし2千年の中ではそれさえも織り込み済みに違いないのです。それでも集団は形作られる。決して完全な者ではない、善意だけの集団ではないにもかかわらず、その手をも用いて神さまは、ご自身の救いのご計画を進められる。今謙虚な思いをもって神のわざに招かれるひとりでありたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。誰かが伝えてくださったからこそ主イエスの生き様をわたしたちは知り、それに触れ、癒され、招かれて、ひとりの弟子として従う決意をしたのです。そうしてわたしは神さまの救いのご計画を進めるための一人とさせていただいたのです。感謝します。その感謝によってこの週も歩き通すことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。