イザヤ11:1−10/ガラテヤ3:26−4:7/マタイ2:1−12/詩編145:10−21
「そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」」(マタイ2:1-2)
新生会の交わりが広がって、川崎にいた頃に横浜・戸塚にあるバプテスト神学校に何度か出かけたことがありました。バプテスト同盟が運営している小さな神学校です。そこで伝道者養成部委員会に属している藤岡荘一牧師と再会しました。彼は現在兵庫県にある西岡本キリスト教会の牧師です。神戸聖愛教会で開かれたバプテストの学びの集いなど、あちこちで何度も顔を合わせ親しくしていただいている先生です。ある時、彼からこんな話を聞いたのです。
藤岡牧師が最初に赴任したのは宮城県の登米で、そこで結婚して新婚旅行に出かけた先が遠野だったというのです。わたしが遠野教会にいたことを彼には前に話していましたので、そのことを念頭に置いて話題にしてくれたようでした。二人の話しは「南部曲り家」のことになりました。
クリスマスイヴ礼拝で「南部曲り家」については少しお話ししましたが、南部地方、青森の八戸から岩手の北上辺りまでの広大な地域を指しますが、そこにある伝統的な住居です。L字型に配置された家屋は、Lの付け根の部分が玄関になっていて、入ると広い土間があります。土間は今でいえば玄関とキッチンを兼ねている。左側に馬をはじめとする家畜小屋がL字の短い横線です。右側には大きな囲炉裏のある板の間があって、ここが今でいうリビングダイニングルームです。その奥に畳敷きの部屋が続きます。そういう構造で、人と家畜が同じ屋根の下で暮らしていたわけです。
クリスマスになると宿探しのマリアとヨセフが馬小屋に案内されるというのがわたしたちの頭の中にある常識的な風景ですが、実は遠野で曲り家を経験している者にとっては、別に屋敷から離れたところに家畜だけつないでいる場所がマリアとヨセフにあてがわれたとは思えないのです。
新共同訳でルカ福音書2章のイエス誕生の物語を読むと7節にこう書いてあります。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」ところが、新共同訳の前に使われていた口語訳聖書では「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」と書かれています。南部曲り家でいえば囲炉裏のある板間の奥、畳敷きの部屋、つまり客間は先にベツレヘムに着いていた親戚たちでいっぱいだったために、マリアとヨセフは土間もしくは板間で休んだという風景が目に浮かぶのです。
そういう話をしていたら、藤岡牧師がこんな話をしてくれたのです。登米にいた頃、教会員にBM菌の代理店をしている方がいらしたそうです。で、牧師が結婚し、子どもが生まれるという時に、その教会員が「子どもが生まれたらまず家畜小屋に連れて行きなさい」と言ったんだそうです。そうすることで赤ちゃんの体に大切な菌が入って育ち、例えばアトピーなんかにかからない体になるのだというのです。にわかには信じられないのだけれど、でも確かに人間には無数の常在菌があって、それが体を守っているわけです。もしこの教会員のお話が本当だとしたら、わたしたちが非常に良く知っているクリスマスの物語の趣旨が少しというか大分違ったものに見えてきます。
どういうふうに違ってくるでしょう。マリアとヨセフは宿屋がどこもいっぱいだったけど、機転の利いた人の助けで家畜小屋に案内された。貧しく飼い葉おけという赤ちゃんには相応しくない道具しかなかったけど天使に守られて無事産まれたというのがわたしたちの思い描くストーリーです。何でもかんでも除菌するのが当たり前のわたしたちなら、ウマやウシのいる場所に赤ちゃんを寝かすなんて非常識極まりない。なんて不衛生かと思う。ただそれだけをもってしてもなんと可哀想な赤ん坊でしょう、と思います。だけど神さまだけはその可哀想な赤ん坊を見守ってくれていたのだ、あぁ、やっぱり神さまだけが頼りなのだね、というクリスマスと神の救いのストーリーをわたしたちは描くわけです。
でも、もし赤ん坊が家畜に触れる方が丈夫に育つというのが正しければ、この物語は全く別の話しになる。客間は確かにいっぱいだったけど、赤ちゃんが生まれるならなおのこと家畜の近くで産みなさい。その方が赤ちゃんが丈夫に育つよ、という生活の知恵が、若い夫婦を家畜小屋に案内したかも知れないのです。最初から不運な赤ん坊ではなく、確かに貧しかったけれどもみんなの愛情豊かな場所で、愛情たっぷりに生まれてきた。人間も捨てたモンじゃない、という物語になります。
曲り家から常在菌まで、話しは飛んでゆき、膨らんでいきました。客間のことは前にも話したことがあったけど、赤ん坊を家畜小屋に連れて行く健康法なんて本当にこのときはじめて知ったのです。その話からこんな衝撃的な思いつきが生まれたのでした。
今日占星術の学者たちの物語を聖書で読みました。この学者たちの頭の中を支配していたのは「ユダヤ人の王」となる赤ん坊が生まれたのなら、それは当然エルサレムに、王宮にいるに違いないという、極めて真っ当な常識でした。ただでさえ異邦人たちに厳しいユダヤです。たった3人だったとは思えない、異国のキャラバンが目立たないわけはない。だから彼らの声がエルサレムの人々を不安にさせたのでしょう。
でも、星に導かれてはるばる旅してきたというのがページェントで伝えられてきたこの博士たちの行動だったわけでしょう。ではどうして彼らを導いた星はベツレヘムではなくエルサレムの上空に輝いたのでしょうか。星が間違って導いたのでしょうか。いや、星を発見し情熱を持って旅に出たのは紛れもない事実だけれど、エルサレムにいる=はずだ=という思い込みが、彼らの目から星をかき消してしまったのではないでしょうか。エルサレムを離れた時、星は再び輝いて見えました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(2:9)。でも彼らは知りません。彼らの常識のせいでその後ベツレヘムとその周辺で大虐殺が起こったのです。彼らがちゃんと星だけを見ていたらエルサレムに寄る必要はなかったし、赤ん坊たちが虐殺されることもなかったかも知れない。犠牲となった大勢の子どもの家族にとっては、「なんてことをしてくれたのだ!」という思いが芽生えてもしかたない。それほどの大きなミスです。でも、このミスはそのまま今を生きているわたしたちに対する警告でもあるのでしょう。
神さまがわたしたちの生身の歴史に介入される。それはわたしたちの頭で理解出来ることではありません。ましてやわたしたちの常識に沿ったものではあり得ないのです。だから当然それに直面したらわたしたちは狼狽えるし不安にもなる。星を見失うことだって、そりゃあるでしょう。でも、わたしたちの常識に関わりなく、神さまはご自身のご計画を進められる。その時、わたしたちの常識が何の役に立つでしょうか。
その常識を捨て去ること。それが出来ないのです。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11:6−8)ここに描かれている牧歌的な情景。あり得ない情景です。でもこの非常識なすがたこそ神の国だとイザヤは謳っているのではないでしょうか。
そしてその言葉は、今ここに生まれたもう赤ん坊のイエスがわたしたちに問うている言葉でもあるのです。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちを支配する常識を、神さまの救いのご計画が力強く打ちやぶり、わたしたちをあらゆることから解放してくださる、その福音に触れながら、でもわたしたちは凝り固まった常識を捨て去ることが出来ません。どうぞわたしたちの頑なな心を、あなたの恵みの光によって溶かしてください。あなたこそわたしたちをあらゆることから解放し、自由を与えてくださる方であることを、今年の終わりのこの日に、改めてわたしたちに知らしめてください。そのために遣わされ、私たちの間に生き、わたしたちの暴力によって十字架で殺され、しかしあなたの救いのご計画によって復活した主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。