ゼカリヤ2:14−17/ヘブライ10:1−10/ルカ1:57−66/詩編89:20−30
「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」(ルカ1:64)
聖書の登場人物を当たってみると、「不妊の母から生まれた」という物語が多いということに気づきます。
たとえば、神の直接契約の相手とされたアブラハムは、その契約が「海の砂、空の星」の数だけ大いなる国民の父となるということであったのに、子どもがいなかったのでした。常識を超えた力が働いてイサクが誕生します。
旧約聖書の歴史書と預言書の中間にあるサムエル記の主人公サムエルの母ハンナもまた、不妊のためさげすまれていました。
士師記にあっておそらく一番有名なサムソンも、その母の名は知られていませんが、不妊の女でした。
のちにキリストの先駆者とされるバプテスマのヨハネの母エリサベトもまた不妊の女でした。今日お読みしたルカによる福音書にはそのことが詳しく描かれています。
子どもを産むことのみが唯一女性の特権であり、その事実のみをもってして女性の価値が量られていた時代です。けれどもそんな時代であっても、あるいは現代であっても、子どもが与えられないことは女性にのみ理由があるわけではありません。願っても得られないというどうしようもない現実でありながら、しかしそのことによって蔑まれてしまう。なんと理不尽なこと、しかし間違いなく神の名によってその理不尽が罷り通っていたのでした。
それゆえに今数え上げた女性たちは皆、大いに嘆いていました。側女や他の妻たちから冷笑され、社会からは蔑まれ、けれども自分にゆえあってそうなったのではないという理不尽をひとり抱え込みながら、それらに耐えて耐えて、そして耐えきれなくなって神の前に祈りにならない祈りを吐き出していたのでした。
「神の名」によって理不尽が罷り通っていた。けれども、当の神ご自身はそんな理不尽とは一線を画します。神ご自身は女たちの言葉にならないうめきの祈りを確かに聞き届けられる方でした。
エリサベトもまた、そんなうめきを何度も何度も神に向かって吐き出さざるを得なかった人だったことでしょう。そして神はそのうめきを確かに聞き届けられたのでした。みごもったのです。しかし、悲しいことに、みごもったらみごもったで、それがまた嘲笑の対象になってしまった。彼女は自分の身の上に重大な変化の兆しを知って、それは待ち望み待ち望み、ついぞかなえられないとあきらめかけていたことであったにも関わらず、その喜びを誰とも分かち合うこともできずに5ヶ月の間身を隠していたのです。
「エリサベトがみごもった」という常識の外の出来事に人々はいぶかしみ、驚き、あるいは失笑し、苦笑したのでしょう。しかしついに子どもが誕生しました。もはや人々はこの幸運な女生とともに喜びを分かち合う他なくなります。人々は皆喜びに満たされ、定められた日に、その子に割礼を施すために集まったのでした。ところが、このときまたしても非常識なことが始まったのです。
通常、父または親族の名前を受け継ぐべき第一子でした。それは生まれながらにして神に捧げられねばならない子どもでもあったのです。ところがそうでありながら、エリサベトは生れた子に「ザカリア」と名付けることを拒んだのです。人々はエリサベトの非常識を呆れ、非難します。そして、女に言い含めるようにと口が利けなくなった夫に解決を迫ったのでした。
ところが夫ザカリアは石版に「ヨセフ」とはっきりと書き記してしまいます。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。」(ルカ1:64)。集まった人々はここに驚くべき出来事を目撃することとなったのでした。
出来事に対峙し、出来事を受け入れ、常識や慣例を打ち破ってかつて命じられた通りのことを自らの喜びとして告白した時、ザカリヤの口は開き、舌がほどけて、神を讃美する言葉がほとばしり出たのでしょう。それは常識に凝り固まった人々には恐れを感じさせるほどの出来事だったにちがいありません。
わたしたちが向かいあっている、あるいは向き合わざるを得ない、言葉を失うような出来事や、受け止めることのできない出来事、押しつぶされるような現実、声にならない叫びに満ちているこの今という時。あるいは幸いを受けるにふさわしいとも思えないいかにも不甲斐ない自分。それらを前に、わたしたちもまたザカリアのように口を開くことさえできなくさせられてしまいそうになります。
しかし、そんな「今」を、まさに「その時」に変えてくださる方が今、来られるのです。ヨハネの誕生はまさにその先駆けにふさわしい出来事でした。
救い主がお生まれになるのです。このわたしの今というときの中に、救い主がお生まれになるのです。それを受け入れようとした時に、わたしたちもまた重く閉ざされた口が開き、喜びの声、讃美の声を挙げるのです。「今」を「その時」に変えてくださる方がわたしたちのただ中に、今来られるのです。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしのための神さまの救いのご計画が既に始まっていることを、おさなごイエスの誕生をもってハッキリと知らしめてくださいました。感謝いたします。あなたの救いのわざが“今”わたしたちの上に、“この時”わたしたちの上に、目に見える形となって現れてくださいました。苦難の中にある者たちの苦難の叫びに、祈りの言葉にもならない祈りに、あなたが応えてくださったしるしです。既に始まっているあなたの救いのご計画を信じ、それによってわたしたちが、与えられたいのちを生きて行くことが出来ますように守り導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。