マラキ3:19−24/Ⅰコリント4:1−5/ヨハネ1:19−28/詩編19:8−15
「彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」(マラキ3:24)
イザヤ書がバビロン捕囚からの解放を告げる時、その解放をもたらすのは他国の王に依るのだと告げられました。「主が油を注がれた人キュロスについて/主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り/国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。」(イザヤ45:1)。「主が油を注がれた人」とはメシアのことです。つまりイザヤはイスラエルではない国の王をメシアとしてイスラエルに遣わす、と言っている。その人こそペルシャ王キュロス2世(前559−前530年)です。彼がバビロンで捕囚となっていたイスラエルを解放しました。これによって約70年間に及ぶバビロン捕囚は終わります。
70年という年月は、恐らく世代が2代進むくらいの時間ではないかと思います。それだけ長い時間であれば、生活の基盤がバビロンで出来上がっている人も大勢いたはずです。
2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が発生し、翌日12日に福島第一原子力発電所が水素爆発を起こしました。故郷を離れて避難した多くの人たちがその日から12年あまりを別の街で過ごしました。今もそうしている人も大勢いることでしょう。帰還困難地域が徐々に縮小されてきていても、ではそこにいた人たちが皆戻ってくるかと言えば残念ながらそうはなりません。10年で生活の基盤はとうに別の街に出来てしまっているのです。
今から70年前は1953年、昭和28年です。この年はまだ街頭テレビの時代にもかかわらず「君の名は」というドラマが大ヒットした年です。ショールを真知子巻きするのが流行った年。吉田茂首相の「バカヤロー解散」があった年。そして朝鮮戦争の休戦が成立した年です。感覚的にはもう大昔です。今さら元に戻れと言われても、それは難しいほど年月が降り積もってしまいました。
イスラエルの人たちの中にも、バビロンに残る決意をした人たちがいました。また、やはり自分たちの土地へ帰る決意をした人たちもいました。帰った人たちを待ち受けていたのは、祖国が荒れ果てているという現実でした。単に地形が荒れ果てただけでなく、約束の地に他の民族が移り住んでいたのです。様々な小競り合いが繰り返されましたが、紀元前517年もしくは18年にアケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世の下で神殿の再建が完成しました。
それからさらに100年ほど後、書かれたのがわたしたちが手にする「旧約聖書」という体裁では一番最後に置かれているマラキ書です。その頃の人々がどういう生活をしていたのかを窺い知る手がかりが1章2節にあります。「わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と。」(1:2)。心のよりどころであった神殿が再建され人々は再び平穏な時代を迎えましたが、100年もしないうちに今度はその平穏のゆえに人々の堕落が始まった。イスラエルはもはや主の愛が何であるのかさえわからなくなってしまっている。平和のうちに神殿に詣でることが出来る時代なのに、そのさなかで「神の愛とは何か、どのように神はわたしを愛してくれたのか、わからない」と人々は言うのです。
しかし神はそういうイスラエルを見捨てない。神の愛がわからなくなった民を滅ぶに任せることをしないで、それでも救おうとなさる。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(3:1)。イスラエルを救うために、まず道を備える使者を送ると約束するのです。
「まず最初に使者が来る」。だから人々の関心はメシアその者よりも、メシアの前に来ることになっている使者に向けられました。それが今日お読みいただいたヨハネ福音書の問答です。人々はこのバプテスマのヨハネが「あの人」なのかも知れないと思っていた。ファリサイ派の学者たちの中にもそういう空気が占めていたことがわかります。だから彼らは確かめようとしたのです。しかしヨハネはついに「そうだ」とは語りませんでした。
しかし、マラキ書は「誰が先駆者か」などではなく、「その日が来る」ということに目を向けろと言っているように思います。その日とはなんなのか、どのような日なのか。「見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。」(3:19)。「高慢な者、悪を行う者」が「根も枝も残さない」ほどに焼き尽くされる日が来るというのです。その時しかし、「わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。」(同20)と続きます。「躍り出て跳び回る」という記述はマラキ書にしか出てこない使い方です。狭い牛舎に閉じ込められていた牛や羊が牛舎から解放されて喜び踊る様子が記されているのでしょう。そして、わたしたちすべてが喜び踊り回るようになるためにこそ、焼き尽くす大いなる恐るべき日が来る前に先駆者を遣わすのだと教えてくれているのです。
この19節には「見よ」とだけ書かれていますが、日本語に訳されていない単語が一つ省かれています。それはヘブル語で「キー」と発音される、「なぜなら」とか「まことに」とでも訳すべき強調語です。「見よ」という言葉も神の重要な事柄として注目させるために使われる単語ですが、それにさらに「キー」と付けられている。「その日が来る」ことが確実なのだよと強調されているのです。切迫感のある表現です。
「義の太陽が昇る」。「高慢な者、悪を行う者」にとってはすべてを焼き尽くす「炉のように燃える日」ですが、それはしかし「父の心を子に/子の心を父に向け」る人にとっては「義の太陽」なのでしょう。わたしたちはわたしたちの心を父に向けることができるのでしょうか。それとも「「神の愛とは何か、どのように神はわたしを愛してくれたのか」わからなくなってしまったのでしょうか。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたがわたしたちを愛してくださっていることを見失わないために、このように毎年救いのわざを憶え待ち望む時を与えてくださり感謝します。今年はとりわけあなたの愛に応えられない人間の愚かしさ冷たさ凶暴さを目の当たりにしている「今」です。しかしどうぞあなたを見失うことがないように守ってください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。