エレミヤ23:1−6/黙示録1:4−8/ヨハネ18:33−40/詩編17:1−12
「彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。」(エレミヤ23:6)
春にちょっとした休日を楽しむためにバスツアーに出かけました。その立ち寄りどころのひとつが静岡県の三嶋大社でした。大社信仰など持ち合わせていませんので、興味本位で境内を散策しましたら、「天然記念物三嶋大社の金木犀」というのを見つけました。樹齢が1200年を超えるというシロモノで、確かに張りだした枝もみごとでしたが、何に一番驚いたかというとその幹です。なんだかカモシカの脚みたいに細い2本が地面から生えていて、周りは木の柵で支えて漸く立っているのでした。知らないで見たらほぼ枯れ木です。ところがこの枯れ木が枝を伸ばして9月上旬と下旬の2回香しく満開になるのだそうです。「枯れ木も花の賑わい」とはちょっと意味が違いますが、なんだか健気に思えました。
樹木と言えば、アドヴェントになると歌われる賛美歌に「エッサイの根より」(21ー248)があります。ダビデ王朝のなれの果て、切り倒された巨木の切り株から、預言の通り新しい芽が吹いてくるということを歌った歌です。かのブラームスが11のコラール前奏曲という美しいオルガン曲集を残していますが、その第8曲が「ひともとのバラ生いいでぬ」という名曲、「エッサイの根より」のコラール前奏曲です。
エッサイからダビデが生まれたから素晴らしいとか、ダビデ王朝の再来であるイエスの誕生をほめ歌うとか、そういう気高いことも良いかも知れませんが、そうではなく、たんにいのちが繋がっている、三嶋大社の金木犀のように死んだような木から若い芽が芽吹いている、切り株からわかい枝が張り出す。単純にその事実がなんだかこの上なく素晴らしいことに思えてきます。エッサイ−ダビデが偉大だからとか、他よりずば抜けて価値があるからとかではなく、単にそこにいのちの繋がりがある、ダビデもまたそのいのちの繋がりの一欠片に過ぎない、しかしそれが生きているというその事実が嬉しいのです。特に無残に多数の人間が殺戮されている今この時代であればなおさら。
教会暦一年の最後の主日は「王の職務」という礼拝主題です。選ばれている3つの聖書の箇所を並べてみれば、真の王の職務を担う・担い得るのは、十字架の贖い主であるイエス・キリストただ一人である、ということなのでしょう。今日の説教はこれで終わって構わないのですが、でもそんなありきたりの話では実につまらないとわたしには思えてしまいます。ま、このあとがつまらなくない保証はありませんが。
日本聖公会というキリスト教の教派があります。聖公会は礼拝で「祈祷書」を使います。聖公会の祈祷書は、司祭と会衆とが交互に読み祈り合うことが主たる構成です。だから聖公会の礼拝には信徒が中心的存在として絶対欠かせない。ところがこの聖公会の祈祷書には「国民祈祷」という頁があってその最初が「天皇陛下のため」、次が「皇室のため」というものでした。1947年、つまり戦後ですね。第22回総会で1938年版の祈祷書をそのまま正本として日本聖公会は採用しました。1959年には翻訳ではない日本独自の祈祷書がつくられますが、それでも「国民祈祷」は改められず残り、1988年に改訂されるまでそれは存続しました。つまり形の上で天皇や戦時国家体制を肯定し続けてきたのです。1996年に日本聖公会は第49総会決議として「聖公会の戦争責任に関する宣言」を採択し、その過ちを告白したのでした。
どうして日本聖公会に「天皇陛下のため」という祈りが残り続けたのでしょう。それはイギリスの聖公会祈祷書に「国王のための祈り」があってそれをそのまま翻訳してつくられたようです。イギリスの国王のために祈るのであれば、日本では天皇だ、と。しかし、実は聖公会にとってとても大切な、そしてけっこう誤解されているのですが、聖公会にとってイギリス国王は、確かに国の為政者であり、最高権力者ですが、教会の位置づけとしては「信徒」であり、イギリスにおける「信徒の代表」がイギリス国王なのです。1534年に「国王至上法」が出され、ローマカトリックからイギリス聖公会は独立しますが、その「国王至上法」はローマ教皇よりもイギリス国王の方が上位にいるという法律でした。キリスト教の教職制度のトップである教皇より、信徒の代表であるイギリス国王の方が上にいる。それを聖公会は基本姿勢としたわけです。そう考えてくると、「国王のための祈り」が日本語版で「天皇陛下のための祈り」になったのは、本当に大間違いだったことが良くわかります。
エレミヤは「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」(エレミヤ23:1)という厳しい神の言葉をとりつぎます。それは全く新しい力でわたしたちを治める王の出現を語ることでした。つまりイスラエルの王たちの不正が目に余るゆえに苦しめられてきた者たちの声を聞かれる神の姿を描いているのです。そして神は、その不正に対して力を振るわれる。つまり神は、人を取り巻く圧倒的な様々の力に苦しめられている者たちの声を聞き、その力に遙かに勝る大きな力を振るわれて、わたしたちを新たな力で導き出し、その力の下で生きていくようにと招かれる。それが神なのだ、とわたしたちに知らしめたのです。何者にも勝る絶大な力を持った神が、最も小さい者の声を聞いてくださる、というのです。
武力や権威や威嚇する力をもって人を支配するのではなく、愛と解放によってわたしたちを支配するかたこそ神です。その神を指し示し、わたしたちと一緒に生きてわたしたちをその神に導いてくださるかた。わたしたちはその方を待ち望む期節を来週から迎えます。わたしたちは、その方が確かに来られたという福音を聞くのです。「彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。」(エレミヤ23:6)。愛と解放の神を指し示す、我らの救いであるキリスト。既に来られたその方を、わたしたちの内にお招きするために、心整えられる一週間を歩みたいと思います。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたは武力や権威や威嚇によってわたしたちを支配する王ではなく、愛と解放によってわたしたちを治めてくださるかたです。そのあなたを指し示すキリストを、わたしたちの救いとしてわたしたちの間に、神さまあなたは住まわせてくださいました。その主に倣って、わたしたちも神さまあなたへの信仰をますます確かに抱くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。