出エジプト2:1−10/ヘブライ3:1−6/ヨハネ6:27−35/詩編105:37−45
「その子はこうして、王女の子となった。」(出エジプト2:10)
エジプトからの脱出はイスラエルにおいてユダヤ教の成立の最も大きな出来事です。ですからユダヤ教最大のお祭りである過越祭では、過越の食卓を囲むという祭のなかで最も大切な所作の中で、席に連なる最も年少の者が、いちばんの年長者に「この食卓の意味はなんですか」と必ず聞かなければならないことになっています。そしてその問いが発せられたら、席に着いている一番の長老は、自分たちの民族の歴史、ことに神の救いのわざとしてのエジプト脱出の物語を語るのです。それは救い主の到来を待ち望んでいるユダヤ教徒にとって、自らの歴史に確かに現れた「神の救いのわざ」であって、それがそのまま自分たちの未来の救いの約束を現しているわけです。
しかし、わたしたちが映画などでイメージしているところのエジプト脱出の壮大なスケールを持つ物語は、おそらく歴史的な事実ではなかったと思われます。あの物語は旧約聖書にしかない物語であって、同時代のほかの書物には一切書かれていないのです。脱出が他の歴史書に記されていないだけでなく、脱出の前提となるエジプトにイスラエル人が入ったという記録もないのです。
ヤコブには12人の子どもがあって、それぞれが家族を構成していたとしても、その総数はたいした数ではありません。その一家がエジプトに移り住み、異国の中で民族が集団で暮らしを続けてきたとしても、聖書に書かれているように壮年男子だけで60万人という数字は、かなりオーバーな表現でしょう。ただ、他の歴史資料の中には、パレスチナの遊牧民が豊かなエジプトに移住し建築労働などに従事し、「ハピル」と呼ばれていたことは記録があります。このハピルが後のヘブル=ヘブライになったのではないかと考えられています。また、旧約聖書によればピトムとラメセスの町の建築に従事したと記されていますが、これはエジプトのラメセス2世が建設し「ラメセスの家」と呼ばれた都市のことと考えられています。
ということは、まとめてみると、エジプト脱出は旧約聖書に書かれている壮大なスケールの物語ではなかったけれども、ごく少数のパレスチナ遊牧民が紀元前14世紀末から13世紀のエジプト新王国第19王朝の頃にエジプトに移住し、建築労働に従事しながら、その過酷な労働故に脱出を試み、やがてカナン地方に定着した、ということになります。
スケールの差こそあれ、エジプトでハピルと呼ばれていた寄留者たちが、偶然の加護によってエジプトを脱出出来たことは奇跡であって、十分信仰の対象になったでしょう。そして物語はどんどん膨らんでいったのです。
でも、物語の語り手たちは、この物語の中に単に拡張主義ではない事柄を書き留めていったのです。それが冒頭お読みした箇所「その子はこうして、王女の子となった。」(2:10)です。
モーセが生まれた時のイスラエルは民族絶滅の危機のさなかでした。ただでさえ建築労働の厳しさの中、更に国王の命令で新生児の男子はみんな殺されたのです。その状況の中でモーセは生まれます。母は苦労の末にその子のいのちを存えさせるためできるだけの手配をして川に流し、姉はそのいのちを見守るために旅路に同行します。最終的にこのいのちはファラオの王女の手によって水から引き上げられるわけですが、王女は王の命令に逆らうことになるわけで、せっかく存えたとしても命が保たれる保証は全くありませんでした。今にも、しかも簡単に失われてしまいそうな存在です。しかしそれにもかかわらず、その命は保たれたと聖書は告げるのです。しかもそれは、本人のあずかり知らないこと、本人の何かしらの能力とか業績とか一切関与しないのです。
旧約の民はこの物語の中に、自分たちの困難を超えて導く神のわざを見たのです。だからこの話は民族のスタートの物語となり、ユダヤ教の最も大切な物語になった。以後数千年この物語は語り継がれるべきものとなったのです。
そしてこの物語はイエス誕生の物語へと受け継がれていきます。新約聖書におけるイエス誕生の物語は、新約聖書諸文書の中でも最後の方に出来上がっています。特にマタイ福音書にあるクリスマス物語はモーセ誕生の物語とほぼ同じストーリーです。ルカ福音書にあるクリスマス物語も、おさなごのほとんど生き存えることが不可能と思われるストーリーはそのまま受け継がれています。ユダヤ教ではまだこの世においでになっていないメシアだけれども、モーセの物語が伝えるように神が歴史に介入されて=既に=モーセの上にメシアの予兆が確かに現れたと信じ受け継がれてきました。キリスト教ではメシア=キリストは既にこの世に来られた、それがイエスだった、彼はモーセと同じようにその命を神の介入によって守られてきた、と信じたのです。そこに、わたしたちは希望が与えられているのでしょう。
希望とは、既に手にしている素晴らしいものが未来永劫続くことではなく、決して手にできない、その可能性が人間的にはゼロであるような絶体絶命の時でも、歴史を導く神であれば、そこに扉を開くことが出来ると信じる時、絶望的な現実に対して希望が生まれるのです。神こそはそういうお方であると信じる時、わたしたちには神ご自身が希望となるのです。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。人の目にはどれ程の絶望であっても、そこに神さま、あなたは扉を開くかたであることを、ユダヤ教とキリスト教は伝え続けてきました。どれ程虐げられている者であっても、その声を神さま、あなたは必ず聞きあげてくださるのです。あなたを信頼する道をわたしたちに開いてください。そのしるしとしてあなたが救い主をわたしたちの隣に送ってくださったことを、かみしめることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。