あまり知られなくても良いことだが、四谷新生教会の礼拝は基本的には「主日聖書日課」と呼ばれる、予め定められた聖書を4箇所読んでいる。司式者が旧約聖書と新約聖書使徒書、そして福音書を読み、参列者がみんなで詩編を交読する。これで4箇所。
毎週の説教はしかし、聖書4箇所を必ず引用するなどして用いることはあまりないと言って良い。内容が互いに関わり合うとか影響し合う箇所が選ばれているわけだから、それぞれの箇所が互いに響き合うことはある。語る側もそういう意識は持っている。
そして、その日の礼拝には4つの聖書箇所から特に「中心聖書(句)」が選ばれ、教会玄関の案内看板などには説教題と共に聖書箇所が1箇所書かれている。この「中心聖書」は教会暦と連動していて、一番長い「聖霊降臨節」はほぼ使徒書が選ばれるし、クリスマス後からイースターまでは福音書が選ばれる。そしてクリスマスの前(つまり今がその時である!)「降誕前節」には旧約聖書から選ばれることになっている。
旧約聖書とはユダヤ教とキリスト教の聖典であるわけだが、これを「旧約」と呼ぶのはキリスト教がいわば勝手に名付けたことにすぎない。ユダヤ教では「律法(トーラー)、預言書(ネビイーム)、諸書(ケスビーム)」が正式な呼び方らしい。また「旧約」が3つに分類されていることから、当然ではあるが旧約諸文書の配列も、我々の手にする「聖書」とは少し(かなり)違う。
で、長々と何が言いたいのか。今は「降誕前節」だから当然説教で取り上げるのは旧約聖書だ。今日の礼拝は「神の民の選び」という主題だから必然的にアブラハムが神に召し出される話が中心だろう。神の創造と救済の意思は先ずアブラハムに結実する。
だが…。このご時世に旧約聖書から、「神の意思」という話を聖書物語か何かのように語ることは辛い。アブラハムからパレスチナとイスラエルが生まれているのだ。あぁイスラエル、イスラエル。絶句しかうまれないではないか。
2023
12Nov