創世記12:1−9/ローマ4:13−25/ヨハネ8:51−59/詩編105:7−15
「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」」(創世記12:1)
アブラハムは、イスラエルの始まり、イスラエルの父祖とされています。最初「アブラム」と名乗った彼ですが、その意味をある本では「偉大な父」であると示していました。つまり、イスラエルの先祖であり、父祖であり、それに相応しい人格者だった偉大な存在と考えられていたのでしょう。それは確かに彼の足跡に現れています。しかし聖書は、このアブラム(偉大な人)に改名を迫るわけです。それは17章に入ってのこと。アブラムの年齢はこの時99歳だったと記されています。「あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。」(創世記17:5−6)。新たに与えられた名前は「アブラハム」、その意味は「多くの国民の父」です。
この変更はどういう意味だったのでしょうか。聖書は、アブラハムが多くの人の尊敬を受ける存在になった最も大きな理由をここに書いているということでしょう。つまりそれは、彼の人格に依るのではなく、彼が信仰によって多くの者の父と呼ばれるようになったからだ、と聖書は告げているのです。それが改名の物語を通して知らされていることです。
アブラム、後のアブラハムは主の言葉を信じて生まれ故郷、父の家を離れた。どうして旅に出なければならなかったのでしょう。元々彼の一族はカルディアのウルに住んでいたのです。アブラムの父ナホルが一族を連れてハランに住んだのが起源です。そのハランでアブラムは豊かな富を得て、多くの家畜にも恵まれ、また奴隷も多く得ていたようです。何不自由なく幸せな暮らしです。しかしある日、その幸せな日々に神が介入し、旅立つことを命じる。聖書はその神の意図について何も告げません。なぜそこを捨てなければならないのか、なぜそこを出なければならないのか、何も知らされないまま、父や兄弟たちをそこに残してアブラムは旅立つことになるのです。
神は、恐らくハランにいた頃のアブラムとその家族を愛しておられたはずです。旧約聖書は「神」について実に明確にその性質を書きます。それは「信じる者に報いる神」です。これが明確であるからこそ、人々にとってはその逆もまた然りなのです。逆とは「豊かに報いられている人は神に愛されている」ということです。アブラムがハランで豊かに祝されていた、多くの財産を得て幸せに暮らしていたということは、神はハランにいるアブラハムを愛しておられたことの証明でしょう。しかし神は、アブラムがハランに留まり続けることをお許しにはならなかったのです。アブラムに何の落ち度もないし、ハランという土地にも落ち度はないにもかかわらず、です。
キリスト教はそれこそ「信仰」だとしてきました。もちろん行く先も知らないで夢に現れた神の言葉に従うのですから、「信仰」と呼ばざるを得ないのは確かです。しかし、理由も知らされずに旅立たねばならなかったとしたら、その事実は一体何を意味しているのでしょうか。
考えられることは「旅立つ」その事実が必要だったということです。アブラムは旅に出なければならなかった、旅に出る必要があったということでしょう。自分には何の理由もなく、です。
もし神が、ハランで幸せに暮らしているアブラムを呼び出すことをしなかったら、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と唱えられることはなかったでしょう。ひょっとしたらハランで知らない者のない人格者としてのアブラムは名を残したかも知れませんが、その地方だけの話で終わってしまっていたことでしょう。ましてやディアスポラのユダヤ人として生きてきた、異邦人の使徒として立てられたパウロが「彼はわたしたちすべての父です」(ローマ4:16)と言い切るようなこともなかったのです。
アブラムが人間的には何の理由も落ち度もなかったにもかかわらず、幸せに暮らしていたハランから旅立った。その事実がなければ、わたしたち、この極東の小さな島国で、全人口の1パーセントにも満たない信徒の群れを形成しているこのわたしたちにとって、彼が関わりの深い、切っても切れない存在となることなど、あり得なかった、このわたしたちと、某かの縁を結ぶなどということは起こり得なかったということでしょう。
そのアブラハムの決意によってもたらされた、神の祝福を、本来受けることの出来なかったはずであるわたしたちが今受けている。わたしたちはその事実を一体今からどうしようというのでしょう。わたしたちは祝福を受けているという事実をわたしたちの中に閉じ込めておくのでしょうか。自分たちが存続するというただそのことのためにだけ、この祝福を用いるのでしょうか。
それとも、わたしたちがそうだったように、わたしたちと縁もゆかりもないと考えられる人々にも、この祝福に与らせるために、神さまの召しに応えて旅立つのでしょうか。
先週わたしたちは、今は眠りに就いている人々を思い起こすために、特別な礼拝を捧げました。思うに、彼女ら・彼らも確かに一人のアブラハムでした。彼女ら・彼らも、確かに何かを捨てて神さまの召しに従った人々でした。その旅の途上で、あるいはその決意の途上で、神さまはそれを「良し」として、彼女ら・彼らを天に引き上げられたのです。それゆえにわたしたちは、彼女ら・彼らを通して神の祝福を受ける者とされたのでした。
アブラハムは父の家を離れて約束の地を目指し、イエスは故郷ナザレを離れてエルサレムに向かい、パウロはエルサレムを離れて地中海世界へと進んでいきました。わたしたちもまたひとりの信仰者として振り返れば、それぞれの絆を離れて神の召しに応えたのでした。「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」」(創世記12:1)。今まさに、わたしたちに語りかける神の召しを改めて聞く者でありたいと願います。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちはあなたに従う旅の道を選びました。そこに幾ばくかでもわたしたちの信仰をお認めくださるのであれば、どうぞわたしたちの営みを祝し導いてください。地上で許されているいのちを、誰かのために使う者となりますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。