東京教区北支区と韓国ソウル老会との宣教協議会特別礼拝
ヤコブの手紙2章14節−26節
神様の愛と平和と恩寵が四谷新生教会のすべての教会員とともにありますように、イエス・キリストの御名によって祈り願います。
韓国基督教長老会ソウル老会ドンニョク教会に仕えておりますチェ・デウク牧師です。そして、ユン・ソンエ長老はハニル教会にお仕えしております。
主にあって、お目にかかることが出来ましたことを神様に感謝申し上げます。
数多くの人々が神様なしで生きています。私たちもそのように生きることはできます。しかし、私たちは神様を信じながら生きています。心の中で自分自身に問いただしてみてください。私はなぜ神様を信じるのか️。何のために信じるのか。何を根拠に信じるのか。
神様なしで生きていくことが出来るとしても、私たちが神様を信じながら生きて行こうとするのは、神様が与えてくださる救いを得るためです。どんな人が救いを得た人であるのか、与えられた御言葉を中心にその意味をよく考えてみましょう。
ヤコブの手紙を記録した人は神様の救いを信じることと行いの関係について証しています。キリスト教信仰は信じることと行いによって構成されているという意味です。そして、信じることと行いは緊密につながっており、一体化していて分離できないのです。信じることは必ず行いが伴い、行いは信じることのうちに実践されなければいけないということが明らかにされています。15,16,17節の御言葉です。着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている人に対して「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで何も与えないことが信じることと言えるのか、どんな役にたつのかと反問しています。むしろそれ自体が死んでいると言っています。26節「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わないで信じることは死んだもの」と言っています。なんとも驚くべき言葉です。信じることは生きていなければなりません。生きていることは呼吸をして活発に動くことです。「はい」と言いながら止まっていることではありません。動いて実践することです。
ヤコブの手紙は生きている信仰の象徴として、アブラハムについて語ります。神様を全面的に信頼したアブラハムは故郷を旅立ち、カナンの地に定着します。現在の引越しとは違います。生存と直結した旅立ちです。自分の生存の生死、禍福の一切を神様にお任せしたのです。繁栄の人生が広がったのです。「好事魔多し」というのでしょうか。
自分と一緒にいた甥であるロトの羊飼いたちの間で争いが頻繁に起こります。繁栄のためにお互いに良い場所を占有しようとしたからです。
アブラハムは譲歩します。お前が東側を選べば西側を、西側を選べば、東側を取ると言います。アブラハムは言った通りに動きました。平安だった人生のある日、神様から思いがけない無理難題を言い渡されます。年老いてから授かった息子を献げものとして礼拝をしろというのです。アブラハムは「はい」と言って行動しました。モリヤの山に登って祭壇を備え、献げものとしてイサクを祭壇の上に縛り上げます。刀を持ってイサクに向けた時、天の声が聞こえてきます。「手を下すな」と。神様は準備した羊を献げものとし、イサクと共に礼拝させました。神様は常にこのようにしてくださる方です。ヤコブの手紙21、22節には「神が私たちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」とあります。アブラハムの信仰を、行いを義とすることによって証しています。
そして、ひとりの女性ラハブをモデルとしています。カナンの地に進撃するに先立ち、偵察軍を送ります。それが発覚して命が危うくされていました。その時、ラハブという女性が彼らを逃がし、無事に帰らせました。命を神様に預けたラハブの決断です。後日、イスラエルがカナンを征服した際にラハブは救いを得ました。25節には「ラハブは使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって義とされたのではありませんか」とあります。
ヤコブの手紙のこのような言葉はイエス様の教えを広く悟り、真理の意味を明白に広めます。イエス様は人々の間に入って活発に働かれました。行くべき道を中断したり避けたりなさいませんでした。小さな子供たちがやって来た時、懐に抱いて祝福なさいました。弱い立場の女性たちが訪ねて来た時にも無視したりしませんでした。病人たちを抱きしめて癒されながら神の国の民とされました。弟子たちが山の上に庵を建てて泊まろうと言った時には、山を降りようとおっしゃいました。神様の救いを受けようとする人はイエス様の歩かれた道に従わなければなりません。従うことのない言葉だけの信仰は信仰を止めることです。止めるというのはたとえですが、棚の下でぼたもちが落ちてくるのを待つようなものです。信仰を止めることで実を結ぶことはありません。愛の実、正義の実、平和の実、慈悲の実、希望の実など。「穀物の実は農夫が手をかけただけ実る」という言葉があります。つまり、足と手をたくさん使えば、ますますたくさんの実が成るのです。実を結ばせようとする信仰は農夫のようでなければなりません。
実を結ばせようとする農夫のような気持ちで、ソウル老会と東京教区北支区の信仰共同体が同じイエス・キリストを告白し、従おうとする時、どんな行いを共に祈りながらやり遂げることができるでしょうか?
今日、私たちが生きる世界は貪欲とマモン崇拝によって、人間らしさがなくなり、破壊されつつあります。そして、戦争は終わりが見えません。経済的危機を打開するために戦争を引き起こしてもいます。一方で地球村は経済成長の麻酔にかかってしまい、CO2排出を減らさなければならないのに、お互いにただ顔色をうかがっているだけです。その結果、段々に地球は暑くなっています。いえ、沸騰しています。生態環境はさらに悪化して生命体を圧迫しています。地球の終末を予告しています。バベルの塔を積み上げようとした人間の驕慢であり罪悪とも言えるでしょう。人種間の争いも繰り返されています。人間が人間を蔑み卑下する愚かさが拡散されています。イデオロギーの対立も続いています。自由という名のもとに集まった韓国、アメリカ、日本の同盟と、それゆえに対立している一党独裁の北朝鮮、中国、ロシアが対抗しようとしている状況は東アジアを危険に晒しています。予想するに、もし戦争が引き起こされれば、台湾や朝鮮半島でも起きることとなり、単純な局地戦ではなく、第三次世界大戦につながりかねません。このようなことが起こらないように、祈りつつ協力しながら進んでいきましょう。朝鮮半島の平和と東アジアの平和のために信仰の行いを共に広げていくことを切に願います。
特に、私たちが共にやらなければいけないことがあります。福島原発の汚染水海洋放出を止めることです。海洋放出をしないで処理できる方法があります。しかし、放流するのは経済的理由からです。小さな利益にこだわって大きな損失を招こうとしています。憂慮していることが現実化された時にはもう遅いのです。回復不可能で次世代が致命的な状況に直面します。万物は創造主である神様が人間に与えられた祝福であり、美しい秩序です。創造秩序を保存し回復することはキリスト者の使命です。信仰の行いによって守らなければならないキリスト者の使命です。自然は循環しています。回り回って皆に迫って来ます。誰もが幸福になるように、私たちに与えられた使命を遂行しなければなりません。
ヤコブの手紙の御言葉は、告白と行いを一致させて生きていくよう促しています。イエス様に従う道であり、イエス様にならっていく道です。
東京教区北支区の教会とソウル老会の教会がこの信仰の道の上に立ち、共に手を取り、連帯し、協力しながら尊い実を結ぶことを願いながら祈ります。
神様の恵と愛と平和、正義と祝福が四谷新生教会の上に、東京教区北支区の上に、そしてソウル老会の上に満たされますように、イエスキリストの御名によって祈ります。