士師7:1−8、19−23/ヘブライ11:32−12:2/ルカ19:11−27/詩編78:1−8
「わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう」(詩編78:2)
クレジットカードの世界的な会社にMasterCardというのがあります。日本の信販会社のクレジットカードにはたいてい提携カードとしてVISAかMasterがついていますよね。このMasterCardが1997年からのコマーシャルで「プライスレス」というキャッチコピーを打ち出しました。強烈に記憶に残りました。これだけではなくて「買えるものはマスターカードで」という言葉がついていました。
世の中にはプライスレス──お金で買えない価値──がたぶんあるのでしょう。でもそれは「これです」とはなかなか明示しにくいですよね。個人的な思い入れや価値観の違いが反映されるからです。当然ですが。
今日交読しましたし編78編ですが、司式者が読まない一行があります。「マスキール。アサフの詩。」と書いています。
歴代誌上6章に主の神殿に神の箱が安置された時のことを書いていますが、その中にアサフが登場します。「この任務に就いた者とその子孫は次のとおりである。ケハトの子孫では、詠唱者ヘマン。」(歴代上6:18)とリストが示される中で「ヘマンの右側に立って任務に就く兄弟アサフ」(同24)と紹介されています。詠唱者の右側ですから、特別な地位にいた人でしょう。そして彼のことは歴代誌下でヒゼキヤ王について書いている29章にも出てきます。「ヒゼキヤ王と高官たちが、ダビデと先見者アサフの言葉をもって主を賛美するようにレビ人に命じたので、彼らは主を賛美して喜び祝い、ひざまずいて礼拝した。」(歴代下29:30)。つまりアサフの讃美歌が伝承されて、ヒゼキヤ王の時代に神殿での礼拝を回復していった時にその讃美歌が歌われたということです。ヒゼキヤ王は「その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。」(列王下18:5)と記されるほどの王でした。そういう重要な時に、伝承され思い起こされたのがアサフの讃美歌だったのです。
そしてマスキール。マスキールという言葉が一体何を指すのか、実は研究者の間でもハッキリとはわかっていないのだそうです。なので、日本語の聖書でも該当する箇所は「マスキール」と書かれています。詩編には13回、表題として出てきます。そしてたぶん「教訓的な歌」とか「巧みな歌」つまり「かなりの技巧を要する歌」という意味ではないかと考えられているのです。
マスキールの語幹は「サーカル」だということは知られています。サーカルとは「指図する」とか「教示する」とか「理解する」という意味です。そこから派生しているということに重点を置いたらマスキールとは「教訓」で、お読みした詩篇78編を全部読んでみれば確かにそこに書かれていることは「教訓」です。しかも「失敗から悟れ」と呼びかけられているのです。ここで言う「失敗」とはイスラエルの「過去」です。神とイスラエルとの関わりが、常にイスラエルの失敗の歴史で彩られている、という理解があるのです。しかもそれが「教訓」であるということは、それを手にし、読んでいる、数千年も離れた時代を生きているわたしたちも、その歴史から学ぶべきことがある、ということになります。
失敗を歴史化する試み。過去におけるイスラエルの失敗に満ちた苦い経験は、それが人々によってはっきりと記憶される時、「教訓」となり、すべての者にとって極めて貴重な教えになる。それはお金では絶対に買えない貴重な富、まさにプライスレスということなのではないでしょうか。
もう一つプライスレスなことがあります。それは今日の礼拝の主題です。「天国に市民権を持つ者」というのが今日の主題です。ここに「市民権」ということばが出て来ます。
「権」ですから、某かの「権利」であることは想像が出来ます。一般的に近代国家で言う「市民権」は国籍と結びついていて、その権利を享有出来るのは即ち「国民」が想定されているわけです。その解釈に倣えば「天国に市民権を持つ者」とは天国の国民が想定されているということになります。ではその「権利」を「持つ者」とはいったい誰なのでしょうか。わたしという人間はその「権利」を持っているのでしょうか。残念ながら運転免許証のように誰の目にも明らかな「権利」の「証明書」のようなものは持っていません。その「権利」を「取得」した記憶もありません。そもそも、某かのわたしの働きによって天国の市民権を取得できるものではないでしょう。
ヘブライ人への手紙は「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、…自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こう」(12:1)と勧めています。あるいはルカ福音書はムナのたとえで、10人の僕に1ムナずつ合計10ムナが与えられていることを示しました。それはわたしの稼ぎではありません。にもかかわらず主人から与えられたのです。実績とか能力とかへの褒賞、獲得賞金ではなくて、むしろ主人からの期待値が1ムナということではないでしょうか。であれば、わたしには「天国の市民権」が、神さまの期待値として既に与えられ得ている──しかも、知っていようといまいと──ということではないでしょうか。
わたしにも同額与えられている1ムナをどう用いるのか。お金の使い方にこそ人格は現れるものです。であればこの1ムナの使い方にわたしのプライスが現れるのです。わたしはおそらく神の前に立つ時に、必死になって自己弁護するしかないでしょう。でも神さまはそんなわたしに向かって「お前の存在こそがプライスレスだ」と仰ってくださる。最後の審判で気づいても間に合いません。今、神さまの期待に応える歩みへとわたし自身を向かわせなければなりません。
お祈りします。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが与えてくださったいのちをどのように用いるのか、それがわたしに課せられた使命であることを思います。あなたがわたしをプライスレスだと仰って迎え入れてくださるから、わたしは与えられたいのちを使いつくすことへと使命を与えられているのです。どうぞあなたの招きに従い歩みを進めることが出来ますように。今世界中が主の歩まれた場所での殺し合いに固唾を飲んでいます。どうぞイスラエルの暴力を神さまの力で封じてください。わたしたちにはこの地上でこそ、神さまの国を実現することが求められています。あなたの国に戦争や殺し合いなどあり得ません。「復讐するのはわたしだ」という神さまの声を、すべての人が思い起こすことができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。