ヨブ42:1−6
今朝はヨブとヨナという二人の対照的な人物と彼らに対する神様の対応を比較しつつ、神様の私たちに対する愛について、ご一緒に考えてみたいと思います。
まずヨブですが、ヨブ記の冒頭天における神とサタンとの対話の結果ヨブに「謂れのない災い」が襲うことが決定します。しかも敢えてその理由を挙げるならば、ヨブの(神に対する)態度が正し過ぎたから、ということになります。日本の諺に「さわらぬ神に祟りなし」とありますが、ヨブ記を短絡的に読めばまさにそう読めてしまいます。「神に対して熱心になり過ぎると、恐ろしいことが起きる」と。では一体神はなぜヨブに一連の災いが臨むことを許されたのでしょうか。まさか神は本当にサタンのそそのかしに乗ってしまわれたのでしょうか。ヨブ記42章5節を読むと、神がこれらの災いをサタンに許可した真の理由と思われることが記されています。すなわちヨブはこれらの災いに遭うまでは「(神のことを)耳で聞いていました」が「今は自分の目であなたを拝見します」と告白しています。つまり以前のヨブは神を畏れ忠実に厳格に神を敬って生きてはいましたが、神との親しい交わりはありませんでした。ヨブにとって神は遠い存在でした。しかし神はヨブともっと近くありたいと願われたのでしょう。創造のはじめ、神はエデンの園でアダムとエバとの日々の交わりを大切にされていました。神は私たちと親しく交わることを喜ばれるお方です。
とは言えヨブが受けた苦難は想像を絶するものでした。その苦難は段階的に彼を襲いました。まず彼のすべての財産、10人の子どもたち全員を一度に失います。それでもヨブは神に対する忠実さを堅く保ちます。「主は与え、主は取り去りたもう。主の御名はほむべきかな」
次に自分の身体に苦しみが臨みます。全身にひどい皮膚病を発症し、ヨブは陶器の破片で体中を搔きむしりながら灰の中をころげまわります。ヨブの妻は呆れて「いつまで神に忠実であろうとするのですか。神を呪って死になさい」と吐き捨てます。それでもヨブは「我々は神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」と応じ、神に対する忠実さを保ちました。
そして三人の友人が現れます。彼らはヨブに危害を加えるために訪ねて来たのではありません。それどころかヨブのあまりの悲惨さに、七日七夜、ただ黙ってヨブのそばに座ってくれたのです。彼らの友情は並々ならぬものであったと思います。恐らくヨブも彼らの友情が嬉しかったのでしょう。少しずつ、口を開いてゆきました。「自分は生まれて来ないほうが良かった」 …どれほどの絶望、どれほどの悲しみでしょうか。ところが、このヨブの言葉を聞くや否や、三人の態度が一変します。「神は常に正しいお方だ。理由なしに災いを下すはずがない。あなたにこの災いが及んだのは、あなたが罪を犯したからに相違ない。悔い改めよ!」と延々ヨブを責めたてるのです。ヨブ自身、何度も自分を省みたことでしょう。でもどうしても思い当たるふしがない。自分は決して罪がないわけではないが(7:21)、これほどの災いを受けねばならないような罪を犯した覚えはない(それはそうでしょう。この災いの原因はヨブにないのですから)。ですからヨブは断固として譲りません。ヨブと友人たちとの論争は3章から37章までひたすら続きます。そしてついに神ご自身が姿を顕されます。きっとヨブは期待したことでしょう。この災いが何故自分に降りかかったのか、神の口から答えてもらいたかったことでしょう。けれども神はひと言もそれ(天上での神とサタンとの対話)にはふれず、一喝してヨブを黙らせるのです。いかに全能者、創り主なる神とはいえ、これはあんまりではないでしょうか。神は何故このような態度を取られたのでしょうか。神は暴君なのでしょうか。独り子イエス・キリストを私たちの贖いのために与えて下さるほどに私たちを愛される、愛深いお方ではなかったのでしょうか。
ここで一旦、ヨブからヨナに目を転じてみたいと思います。ヨナはヨブとはまったく正反対と言える人物です。彼は最初から神に対して反抗的でした。神が「ニネベに行って悔い改めを宣べ伝えよ」と命じても、ヨナは拒否してタルシシュへ逃れようとします。暴風に遭うと今度は船員らに海に投げ込むよう頼みます。つまりヨナは死ぬつもりだったのです。「死んでも神の命令には従わないぞ」という頑固さです。けれども神はヨナを助けます。そして大魚の腹の中でヨナは主に祈るのです。一見悔い改めたかに見えますが、そうではなかったようです。大魚の腹から吐き出されたヨナは再び神からニネベに行って宣教するよう命じられ、今度は従います。けれどもニネベの人々が悔い改めたのを見てヨナは激しく怒るのです。彼はイスラエルの敵であるアッシリアが悔い改めずに滅びることを願っていたのでしょう。そして神に対して「私の命をどうぞ取って下さい。死んだ方がましだ!」と暴言を吐きます。
このヨナの悪態に対して、神は「お前が怒るのは正しいことか?」と一言たしなめただけです(えーっ、神さま、ヨブのときとはあまりに態度が違い過ぎではありませんか!?)。その後、ヨナは町を出て、ニネベが滅びるかどうか様子をうかがっていました。そのヨナに対して神は炎暑の日差しから彼を守るためとうごまの木を備えました。ヨナはその木を大いに喜びましたが、翌日神は虫に命じてその木を喰い荒らさせたので木は枯れました。するとヨナはまたも「死んだ方がましだ」と悪態をつきます。そのヨナに対してなんと神は丁寧に諭されるのです。「あなたは、労せず、育てず、一夜に生じて一夜に枯れたこのとうごまの木を惜しんでいる。であるなら、どうして私がこの大きな都ニネベにいる十二万人以上の民を惜しまずにいられるだろうか」とご自分の心をヨナに理解してもらおうと諭すのです。これもヨブとはあまりに異なる対応ではないでしょうか。一体、神はどういうおつもりなのでしょうか。
聖書の神様は自然法則やその類ではありません。人格を持っておられ私たちひとりひとりと関係を持たれるお方です。ご自分の心を私たちと分かち合おうとなさるお方です。神の愛は画一的な通り一遍の愛ではなく、私たちひとりひとりに対し各々の性格・気質、成長段階、状況に応じて表される「父の愛」です。神様は私たちを子として取り扱われるのです(ヘブライ12:7)。ヨブに対してもヨナに対しても神の愛は変わりません。その人に今必要なもの、ときには訓練を、ときには慰めを、お与えになるのが主なる私たちの神様です。
私たちが生きてゆくなかで遭遇する様々な試練、困難があります。主を信じているのにどうしてこんなことが起こるのだろう、「主よ、なぜですか?」と思わず訴えたくなるときがあるかもしれません。そのときは正直に自分の心を主に申し上げましょう。そして主の御心をお聞きするのです。あの方には必ず、私たちひとりひとりに対する良いご計画があります。
神はヨブを憎んでおられたのではありません。ヨブは(ある意味で)特別に選ばれた人でした。それゆえに神はあの試練をお許しになった。それは「ヨブなら乗り越えられる」と彼を信じたゆえです。けれども神は暴君ではありません。ヨナにはまた違った接し方をなさいました。私たちも、この神様を信頼してゆきましょう。神様は私たちを愛しておられます。子として私たちを訓練なさいますが、決して耐えられない試練はお与えになりません(Ⅰコリント10:13)。ですから、どんなときも神様を信頼して進みましょう。