アモス6:1−7/ヤコブ2:1−9/ルカ16:19−31/詩編73:21−28
今日のルカ福音書の話は、明確に先週の続きです。先週読まれたのは「不正な管理人のたとえ」でした。説教で話した結論は、わたしたちはまさに神の宝に対する不正な管理人なのだ、ということでした。そして驚くべきことに、神は御自分の宝を人間によって不正に管理されることをむしろ喜んでくださる。神が救ってくださるということにおいて、わたし自身の内側には一欠片の根拠もないけれども、神さまがそのように決意なさり、御自分の宝をわたしたちが不正に管理することまでゆるしてくださるその決意こそが、わたしたちを生かす根拠なのだと。
そのたとえ話の結びの言葉は「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(16:13)でした。これはイエスの弟子たちの語られていたたとえ話なのですが、それを端で聞いていたファリサイ派の人たちからあざ笑う声が挙がったとルカは書きます。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」(同14)。その「あざ笑う」ファリサイ派に対してイエスは今日の「金持ちとラザロ」の話をなさったのです。それはつまり、イエスの言葉をあざ笑っているファリサイ派に対してのイエスの反論であり、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」(同17)の弁証法でもあるのでしょう。
ところで何故ファリサイ派はイエスの言葉をあざ笑ったのでしょう。前後関係から読み解けば、もちろん彼らは最初からイエスを胡散臭く思っていたのはその通りなのだけれども、こと先週と今日のイエスの話に絞って考えたら、彼らがあざ笑ったのはイエスが発した言葉があったからだとわかります。それが「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(16:13)という言葉だったのです。
この言葉をわたしたちは「確かにその通りだなぁ」としみじみ思う──思うだけで、では生き方を改めるかというとなかなかそうはいかないので、逆にしみじみ思う──だけなわけですが、ファリサイ派たちはそうではなかった。ということは、ファリサイ派の教え、あるいは(旧約)聖書の読み方の中に「神と富とに両方仕えることは可能だ」とか、ひょっとすると「神をあがめるゆえに富がついて回るのだ」と本気で信じていたことが窺えます。例えば、これも先週話したことですが、イエスの弟子たちも自分たちの人生の中で培ってきたであろうこと、「正しい人は神から好かれているゆえに義人は繁栄し邪な者は苦難に遭う」という価値観です。神を愛することと富を愛することは全く矛盾なく併存できるのです。
しかしイエスはその価値観を問う。その問いがこの「金持ちとラザロ」のお話だということです。確かにこの話はいきなり「金持ちがいた」(同19)に始まります。彼が律法を常に守り神の前に正しい人だったとかの注釈は1行もありません。同じように「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわ」(同20)っていたと言います。彼もまた神を憎み律法に反し神から嫌われるのが当然な人間だったというような注釈はないのです。一方は富んでおり一方は貧しかった、その事実が綴られるだけです。
そして二人とも死んだ後、その立場が逆転する。そしてこれもまた驚くべきことに、この金持ちは自分の死後の状況を受け入れているのです。「どうして私だけが陰府にいるのだ」みたいに怒らない。これはひょっとすると生前の自分の生活が神の御心に反していたかも知れない、思い当たるフシがあったということなのかも知れません。だからでしょうか、自分の兄弟たちも自分と同じような生き方を繰り返していることを危惧してもいる。
ところがファリサイ派にとっても信仰の父である偉大なアブラハムは、金持ちの些細な願いに対しても拒絶します。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」(同29)。つまり、聖書に語られている神の御心をちゃんと読めよ、と言うわけです。でも金持ちにとってそれだけでは生活を変えることはできない。もっと何か特別なしるしが、不思議なしるし、自分たちの生き方が誤っていることを知らしめる決定的な出来事が必要です、と訴える。しかしアブラハムは「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」(同31)と、その願いを一蹴してしまいます。当然この言葉は、十字架で殺され、3日目によみがえるイエスのことが想定されています。そしてファリサイ派は目の前でイエスがそれをなさったとしても受け入れることは出来ないだろう、と。残念ながらそれは事実になっていますよね。
思い起こせばルカはイエス誕生の時から例えばシメオンという老人を通して「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」(2:30)と賛美させていました。イエスは聖書の通りに生まれ、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:22)と天が叫び、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(9:35)と雲の中から声がする人。その生涯をもって聖書を適切に解釈し生きている人なのだとルカはずっと綴っているのです。「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」(同17)の言葉通り「律法の文字」を、正しく解釈して生きたということなのでしょう。
「人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」(同15)ともイエスは語ります。つまりルカは、イエスに従っているというわたしたちもまた「それ、律法違反です」とイエスによって指摘されるよ、と言いたいのでしょう。
イエスはその生涯を通して神の国の完全な実現のための道をお開きになった。そのことをわたしたちは本気で信じられるか、信じてその道に向き直るか。ファリサイ派たちと同じようにわたしもまた問われているのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたは先にモーセや預言者たちを遣わして、あなたの道を示す言葉をわたしたちに与えてくださいました。しかしわたしたちは自分の心をひらき、あなたに向き直ることをしませんでした。主イエスが十字架で殺され、死者の中から復活して、わたしたちに神さまの御心を知らしめてくださったのに、それでもわたしの心をひらき、あなたに向き直ることをしませんでした。自分に都合よく神さま、あなたの御心を改変したのです。その罪を自覚し、もう一度あなたの示される道に向き直ることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。