サムエル下18:31−19:1/ガラテヤ6:14−18/ルカ14:25−35/詩編142:1−8
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:27)
教会によっては看板に聖書のことばを書いているところがありますね。聖書といっても分厚い書物ですから、その中の言葉を書くのであればいろいろバリエーションがあるだろうに、わりとよく見かけるのがマタイ福音書の言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11:28)。
山口県の防府教会にも、この聖書のことばが書かれた看板がありました。古い看板でしたから書かれている言葉は口語訳でした。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」。
ちゃんと聖書を読めば「わたしのもと」とは「イエスのもと」であることはわかります。でもこの言葉だけ取り出して看板に書いてあるとなれば「わたし」は「教会」のことであると読めてしまいますよね。で、おそらくこれを看板に書いている教会は、こういう風に読ませたいわけです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、教会に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」。
私はどうにも教会にこの言葉が書かれていることが嫌いだったのです。なせなら「すべて苦労している者は、教会に来なさい」と宣伝しながらも、教会に誰でも来たら困ってしまう。「誰でも」と言いなが、教会の側は選り好みしている。ひょっとしたら四谷新生教会にも思い当たることがあるかも知れませんよね。で、教会はそういう態度を改めるかといえば、残念ながら簡単ではないわけです。それならそんな言葉は看板に書かない方が良い。防府教会は1999年に大きな台風に見舞われて礼拝堂を含む境内地の大改装を余儀なくされ、その工事のどさくさでこの聖書の言葉を看板から外しました。シメシメでした。
先週、神が教会に招いているのはひょっとしたら私ではないかも知れないということをお話ししました。ルカは「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」(13)と書くことによって、それらの人を特定したのではなく、そうではない人たちとの対比にしたのだと思います。つまり、病気や体の不具合はそれだけで神から嫌われているという常識にどっぷりはまり込んでいる人たちに対して、本当にそういう人たちが神から嫌われていて、あなたたちは好かれているのか、と。その根拠は何かと問うたのだと思います。イエスにとって、神からの救いとは人間の権利ではないからです。人間の側が人間の某かの行為や能力や信仰の積み重ねで当然要求できるものではないのだ、と。ただ神の選びによるのです。だから、洗礼を受けたクリスチャンだからとか、神の言葉を述べ伝える牧師だからというその人の属性によって救われる人と救われない人との線引きが出来るわけなどないのです。
そのように考えたなら、「わたしのもとにきなさい」が、決して教会のことを指すのではないのはわかりきったことです。人を心から休ませることの出来るのは神以外にいない。だから神のもとに来なさい。もし教会の看板に言葉がどうしても必要なら、そう書くべきです。そして「だれでも」の中にこのわたしも含まれているのだと、その看板を見る度に自分に問い続けなければならないでしょう。
今日のイエスの言葉は「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:27)と、極めて強い言葉でわたしたちを戒めるものです。この言葉の前に、わたしは自分の何を指して自分のことを「イエスの弟子だ」と言い切れるでしょうか。むしろ「あぁ、やはりわたしはイエスの弟子ではないのだ」とうな垂れるしかありません。「イエスさま、あなたがわたしに求めるものはあまりにも重すぎます」と。
そのことを端的に示す挿話として、ルカは先週の聖書の箇所と今週の箇所との間に「「大宴会」のたとえ」を配置しています。この「大宴会のたとえ」はつまり神が招いた宴会に招かれたはずの者は一人も参加しなかったという話です。「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」(14:24)という結びの言葉が示すとおりでしょう。
イエスがこの14章で言おうとしているのはこういうことではないでしょうか。つまり、自分で自分を神の招きに相応しいと思う者の中で本当に神から招かれている者はいない。神の招きに相応しいのは、自分の十字架を負い続ける者のことだ。けれどもわたしたちは自分の十字架でさえ満足に担い続けることは出来ない。それはあまりにも重いし、そもそも能力を超えている。自分の人生さえままならないのだから。ところが、何故なのかはわからないけれども、あのイエスは、わたしの肩に食い込むその十字架を、傍らで一緒に担ってくださる。背負えない者を背負えないからという理由で捨て置かない。そんな救いの矛盾を神ご自身がすべて丸抱えしてくださるのだ、と。
わたしは確かに主イエスの弟子であると公言することを躊躇います。それに相応しい何も出来ないし、実を結ぶこともあり得ないでしょう。しかし神は、自分でさえ背負いきれないわたしの重荷を傍らで一緒に担うためにこそ主イエスをわたしのためにお遣わしくださった。その事実によってわたしたちは、神さまの前に主イエスと共に立つことが出来る。きっとそういうことなのだと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの弟子であるなどと公言できない、何ひとつ求められることを担えない者に、主イエスをお遣わしくださったのはあなたです。自分の力を信じることも依り頼むことも出来ない者なのにあなたは、このわたしを救おうと決意なさったと、主がわたしたちに教えてくださったのです。だからあなたの救いを信じます。その救いがわたしのもとにまで伸ばされていることを信じその救いに縋ります。どうぞ御心のままに導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。