※本日は滝澤牧師不在のため、メッセージの音源はありません。文字情報だけお伝えします。
申命記7:6−8/Ⅰコリント1:26−29
娘がまだ小学校低学年の頃、家のなかですることで、戸惑ってしまうことがありました。彼女は玄関とか洗面所に小さい石ころや花を置いて飾るのです。私から見れば、それほど綺麗でもない石ころや花が置かれます。花はまだいいのです。取るに足りない石ころのどこがいいんだろうと思うのですが、本人にとっては大切なものらしいのです。山や海などに出かけた折に拾ってきた、本人にとっては素晴らしい、かけがえのない石を飾っては、満足するらしいのです。私にしてみれば、こんな石ころのどこがいいんだろう、と思うわけですが、本人に言わせれば、「だって好きなんだもの」ということになるわけです。
しかし、よく考えてみますと、一見つまらないと思えるものを宝のようにして大切にするこの娘の態度は、聖書の神さまが私たちを愛してくださるときの、その態度に似ているのではないかと思わされます。それ自体はどう考えても世間の人々が認めてくれるような価値ある存在ではないのに、あえてそれを自分の宝として愛する態度、これこそ神さまが私たち人間を愛してくださる態度なのです。
今朝の旧約聖書の<申命記七章六〜八節>は、この神のアガペーの愛の本質をきわめて印象的にしるしている箇所です。そこには「あなたの神、主は地の面にいるすべての民のなかからあなたを選び、御自分の宝の民とされた」としるされています。ここに言われている民とはイスラエル民族のことですが、新約聖書は、イエス・キリストの救いのわざによって、この救いへの選びが今や全人類に当てはまるのだ、と宣言します。ですから、私たちもこの神の宝として愛される者となるのです。でも、このアガペーの愛をしるしているという申命記の箇所が、なぜ、印象的なのでしょうか。
この申命記の箇所で皆さんにとくに注意していただきたいのは、七〜八 節です。七節は「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは…」と始まりますので、私たちはこのあと神がイスラエルの民を愛し選ばれた理由について語られるのだろうと期待します。すると、七節は続けて、「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と、まず、イスラエルの貧弱さ、惨めさについて否定的に語ります。それでも、イスラエルが選ばれた積極的な本当の理由があるにちがいない。では、それは何だったのか、と知りたくなるのですが、その私たちの期待に反して、八節でもじつはそのことははっきりと答えられません。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…救い出されたのである」と述べられています。ただそれだけです。ある英訳聖書では、ここは“It was just because he loves you.”としるされています。「神があなたがたを愛されたのは、神がただあなたがたを愛しておられるからだ」という、何かわかったような、わからないような言葉がしるされているだけなのです。
私の高校生時代だったでしょうか、NHK教育テレビの英会話の時間が好きで、その番組を見ながら英会話の勉強に励んだものでした。その時に覚えた英語の表現で忘れられないものがいくつかありますが、その一つが申命記の今の箇所を理解するのに大いに役立ちました。それはこういうことです。
小さい子供は成長する過程で親によく「なぜ」「どうして」と質問いたします。親もそれにできる限り答えて、子どもの物事の理解を助けようとするわけですが、親の知識にも限界がありまして、子どもの「どうして」という質問にうまく答え切れない場面が出てきます。そのとき、親が思わず言ってしまう言葉があるのですが、それは何でしょうか。
お母さんたちは、こう言うでしょう。「どうしてって、どうしてもよ」。そう、「どうしてもよ!」、これがその場合の答えです。では、これを英語ではどう表現したらよいのでしょうか。そうです、それが申命記のこの箇所にしるされています。“Because!”です。“Why? Why?”と問われ続けて、答えに窮したら、大声でただ一言、“Just because!”と言えばよいのです。「ビコーズ」のあとに続く理由の文章を言わないで——言おうと思っても言えないのですから!——ただ“Because!”「どうしてもよ!」と言えばいいのです。
先に掲げた申命記の英語のテキストも“It was just because he loves you.”でした。そして、日本語の口語訳も「・・ただ主があなたがたを愛し」と言うだけです。
こうして、申命記は、なぜ神がイスラエルを選んで宝の民とし、特別に愛されたのか、その理由については明確に答えないことで、神の愛の本質を正しく証言しているのです。つまり、人間の側には神に愛されるにふさわしい理由は何もないということなのです。
なぜ、どうして、私たち人間はあなたの愛顧を得ることができるのでしょうか、という人間の不遜な問いかけにたいして、神さまは答えに窮されます。神さまの側から見れば、私たち人間には愛されるにふさわしい何の価値もないからです。人間は神さまがそれを探そうと努力されても見つからないほどの存在でしかないのです。そこで、神さまは、自分の長所や魅力を言ってもらいたくてウズウズしている人間を前にして、いささか恥ずかしげに、「私がお前を愛しているのは、ただ私が愛そうと決心したからだよ」と仰るわけです。それが、この<申命記>の箇所の意味です。
以上のように、神さまのアガペーの愛について教えられて、最後に、皆さまにお奨めしたいのは、宝でないものを宝としてくださる神のアガペーの愛によって救われたと信じる者として、たとえ不完全、不十分な仕方であっても、日常生活において、この愛を実践しようとする者とならせていただきたい、ということです。宗教改革者ルターはたしかに使徒パウロの「信仰義認」の教えに賛同して、人は良い行いによって救われるのではない、と教えました。けれども、そのことを承知のうえで、私たちが不十分ではあっても隣人にたいする愛のわざに励むならば、たしかに学びうる、大切なことがあります。それは、私たちが他者を愛することの難しさを経験することのなかで、神さまがじつは私たち自身をいつもどのような思いをもって見守ってくださり、私たちのためにどれほどの犠牲を払い続けてくださっているのかを、覚えることができる、ということです。それを知るだけでも、私たちが神の愛にまね倣ぶということの意味があるのです。いや、むしろ、そのことが神の愛に真似ぶということの意味かもしれません。