※本日は滝澤牧師不在のため、メッセージの音源はありません。文字情報だけお伝えします。
マルコ8:34-9:1
34節でイエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、かなり厳しい言葉をイエスは人びとに投げかけます。本気で私に従うとはどういうことかと迫ってくるように、ある種の凄みも感じさせます。群衆を呼び寄せ、全てのひとに開かれた招きでありながら、「自分を捨て、自分の十字架を背負って従え」と言われるその招きの内容は非常に厳しいものです。
では、ここでイエスが言う「自分を捨て」とはどういう意味でしょうか。
新共同訳聖書で「自分を捨て」と訳されている「捨てる」という単語は、マルコ福音書では、この箇所と、14章30節だけで使われています。14章30節でイエスはペトロに「三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言います。この「知らないと言うだろう」は直訳すると「わたしを否定する」で、イエスはペトロに向かって、あなたは「三度わたしを否定する」のです。
従って今日のテキストの「自分を捨て」を直訳すれば「自分を否定し」と自己否定を求めています。こうして紐解くと、この言葉は益々厳しさを増してきます。自己否定は、一般的にはマイナスのイメージがあります。「あなたはそのままでいいよ」と、自分を肯定することを善しとする言葉は巷に溢れています。しかし、イエスはその反対を突きつけるのです。
35節では「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」とイエスは言います。自己否定し自分の十字架を背負えというイエスの言葉を解明する手がかりがありそうです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」すなわち自分のことだけ考えていたら命を失うのだけれど、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」すなわちイエスと福音のために生きるのなら命を失うことはないと語っており、イエスと福音のための生き方とは何かということが問われます。
マルコ福音書4章3節ではイエスが「種を蒔く人の譬え」を語ります。この譬えから学ばねばならないのは「福音を受け取る人の条件ではなく、福音の拡大してゆく豊かさ」です。福音を説教から聞いて理解し、福音が豊になったと感じるだけで終わってはいないでしょうか。蒔かれた土地と自分を比較しようと、条件を考えて自分を評価するのではなく、イエスに従って福音をどんどん蒔いてゆきなさいという促しに気づかねばなりません。
このことを今日のテキストに引き寄せてみれば、35節「わたしのため、また福音のために命を失うものは、それを救うのである」ということの意味が浮かび上がってきます。自分は茨の土地なのか、道端なのかと自己評価するのではなく、まずはイエスに従い、福音が拡大していく豊かさを求めなさいということです。
そして、イエスが最初に突きつけた「自己否定」「自分の十字架を背負え」という意味も自ずとわかります。それは自分を否定しろということではなく、いまある自分が何にとらわれているのか、自分との関係をもう一度考え直して向き合いなさい、ということではないでしょうか。どれほど強い信仰を持っていると確信したところで、常にイエスと共にいたペトロでさえも、最後にはイエスに否定されるのです。自分の十字架を背負うほど、自己と向き合い、イエスがなしてきた福音の道を歩めるのか、とイエスはここで問うています。自分で自分を評価するのではなく、主イエスに従い、福音を蒔き、実行してゆくものに真になれるかという厳しい問いです。イエス自らの計り知れない厳しい受難を前にした道程に従うことを、自らに問うて決意せよと言うことです。
わたしの事務局での仕事のひとつに教団HP作成があります。HPのトップページを毎月作りますが、聖書の言葉を選んで、グラフィックデザイナーに制作依頼しています。作成にあたっては、なぜこの聖書箇所を選んだのかをデザイナーに説明し、それを解釈してデザインしてもらいます。8月は、いつもの作業とは少し違いました。デザイナーさんが、若い仕事仲間が亡くなったこと、8月の広島、長崎への原爆投下、沖縄のこと、ほんの短い数行ですが、御自分の思いをメールで伝えてきました。いつもは、先にわたしが導入部分を考えて提案するのですが、今回はデザイナーさんが最初に投げかけてきました。選んだ聖書箇所は詩編3章6節、7節「身を横たえて眠り わたしはまた、目覚めます。主が支えてくださいます。いかに多くの民に包囲されても 決して恐れません」です。
6月23日は苛烈な沖縄戦がとりあえず終わった日です。戦争は続いて、広島と長崎に原爆が落とされました。日本だけでなくアジアも含め、多くの命が消されてしまったその戦争は、暑い夏にこの国の敗戦で終わりました。100年前、残暑の頃、9月1日は関東大震災で被災した多くのひとの他に、多くの無辜の朝鮮人がデマによって虐殺されました。消されてしまった犠牲者の魂と共に、残された家族や近しい人びとは、苦悩の中を歩みます。苦悩の中を歩むことは、どんな場面、どんな時でも起こりうることです。もう二度と這い上がれないであろうかつての幸せな場所を思い起こしながら、どうやって苦しみを引き受けるか、脳裏を行ったり来たりする感情に揺さぶられながら、です。それでもひとは眠り、そして目覚めます。詩編を編むひとは眠り、目覚めながら「主が支えてくださる」そして「いかに多くの民に包囲されても 決して恐れない」と言います。詩人の、ひとりの人としての、神との関係をここにみることができます。
あるいは、新約聖書では使徒言行録18章9節、10節でパウロは幻の中で主の言葉を聞きます。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だからあなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と苦難の中で伝道のために歩き続けるパウロを励まします。パウロというひとりの人と神との関係がまた、ここにもあります。福音を広めることに恐れをなしてはいけないという励ましです。
イエスは、押しつぶされる自己犠牲ではなく、自己との関係性を見直せ、生き直せと迫っています。イエスが何者であり、何を語り、何をなしてきたのかを知るために、いったん自分との向き合い方を立ち止まって考えてみること。自分が誰なのかを知ること、自己実現への道が開かれるためには今の自分に留まっていては難しいこと。その難しさは、まさに自分の十字架を背負うことほどなのだということです。自分だけの救いに留まって、そのことに心を奪われていれば命を失うだけです。今日のテキストの厳しさは、そこにあります。しかし、イエスは、詩人と神の関係のように、あるいはパウロと主イエスの関係のように、あなたと共にいてくださるのです。苦しみの中にあるのなら、わたしにぶらさがればよい、とイエスは言ってくれているように思います。
この国の近代の夏は、とりわけ、嘆きの魂が彷徨う時です。仏教ではお盆ですが、仏教でなくとも、この季節は死んでしまった愛しい人の魂との、密やかなやりとりが、そこかしこで聞こえてくるようです。
この夏の季節、あらゆる魂が今の世を見つめるこの時に、わたしどもは主イエスに従う者になるために、もう一度自らと対話しながら、主イエスの福音を世に知らせる者になるためにどうすべきかを考えてゆきたいと願います。