※本日は滝澤牧師不在のため、メッセージの音源はありません。文字情報だけお伝えします。
マタイ7:7−8
執事になると月に1度位はこの講壇に立って司式をいたしますが、何回やっても緊張いたします。今日は夏の恒例の「信徒奨励」ということで、とうとう私に順番が回りました。私のようなものが皆様の前で、お話をするということは、本当にお恥ずかしいのですが執事会で決まりましたのでお引受けいたしました。
やはり8月は平和を考える月ということで、平和についての内容と決めたのですが、先週の8月第一日曜日は「平和聖日」として礼拝を捧げ、そしていろいろな所で平和についてのお話があり、私は何を語ったらよいのか迷いますが、私なりの平和についてのお話をさせて頂きます。
毎年7月から8月にかけて特に「平和」とか「戦争」の文字が新聞などに目立ってきます。戦後生まれの私には悲惨な体験はありませんが、ロシアによるウクライナ侵攻の現実をテレビなどを通して見るたびに、もしも自分がこの状況に置かれていたらと思うと、涙が止まりません。きっと皆さんも同じ思いだと思います。なぜこのように建物をこわし、病院や学校までも壊すことを公然とするのか。ウクライナ侵攻がいまだに終わらない現実の中で、私は今までの人生の中でこれほど平和の重さを感じたことはありません。今頃気が付いたのかと言いたくなるほど、本当に恥ずかしいことです。もちろん様々なメディアを通して戦争は悲惨であり、絶対にいけないことだと思ってはいますが、私という人間が本当にこれに向き合ってきたのかといえば、甚だ残念な状況であります。
このように漫然と生きている私は、昨年非常に心を打たれたことがありました。それは反戦や平和をテーマとした作家でありました、早乙女勝元さんという方が昨年の5月にお亡くなりになった時の新聞の記事を見た時でした。早乙女さんは12歳で東京大空襲を経験され、一生をかけて戦争の悲惨さを訴え続けてきた方です。新聞には次のような言葉がありました。「『平和は歩いて来てくれない。その火を消すな。どんどんどんどん薪(たきぎ)をくべろ。当たり前の日常が毎日毎日続くことが平和である。平和は奇跡的な状態にすぎないんだ』ということを強く強く思った人。これからも薪をくべてください。」とご葬儀で娘さんが語った、という記事でした。これを読んだ時、私はなんと真実な言葉だろうかと感動いたしました。平和は歩いて来てくれない。この言葉に心が揺さぶられたのです。
「平和は歩いて来てくれない」これはとても有名な言葉のようですが、私はこの記事を読むまでは知らなかったのです。早乙女さんについては皆様の方がより詳しいかと思います。この「薪をくべろ」ということの意味は、きっと早乙女さんの著書に書いてあることと思います。私はあまりこの方の本などは読んでいませんのでわかりませんが、それはやはり「戦争は絶対にしてはいけないことを語り続けて下さい」ということなのではないかと私は思いますが、本当のところはわかりません。
先ほども述べましたが、私はウクライナ戦争をテレビで目の当たりにしました。家族が別れ別れになったり、家の中がめちゃくちゃになって生活が出来るような状況ではなくなったり、愛する家族の死を受け入れられないなど様々な場面に触れるたびに、辛い思いになります。当たり前の日常が毎日繰り返し来る、これは当たり前の事、と思っておりましたが、平和でなければ迎えることのできない、奇跡的な状態なのだと、改めて思い知らされております。「平和は奇跡的な状態」、これは戦争を体験した方にしか本当の意味での言葉にできないものと思います。平和な日常を保つために、これから私たちはどんどん薪をくべていきたいのですが、教会に連なる私はこの薪をどのようにくべていけるのでしょうか。向こうからニコニコと笑いながら歩いて来てはくれない平和は、私の心が作り出していくのではないか。私の心に薪をくべる、という事ではないかと思うのです。では具体的に薪をくべるために何をしたらよいのでしょうか。
私の心は自分の思い通りにはいかない、相手の言動にカチンとくる、あの人はなんでこんなことをするのか、なんでこんな言葉を発するのだろうか、などと相手を批判する思いが圧倒的に多く、自分に対する相手の言葉や、相手の行動が心の大半を占め、悲しんだり悩んだりしてしまいます。それはなぜなのか、そこには自分は正しいのだという、無意識に自分を正当化している現実があるからだと思うのです。そしてまた、人間は不安や心配ごとが、人生の大半を占めているようにも私は思います。
このように心配事や不安、相手の方を批判する思いなどは、私の心が神様に向いていないからだと思うのです。そういった心の状態だと平和は遠ざかっていく。最近強くそう思うようになりました。この小さき器を用いてください、とよく言いますが、自分は取るに足らぬ人間で力はないが、神様の御用に用いてください、何かのお役に立つならば、というイメージが大きいけれども、それだけではなく、神様に与えられたこの私という器は、神様の愛と許しを求めて生きていくための器ではないかと思うのです。愛と許しを求める、愛と許しを実現していく、大変抽象的ですがイエス様の愛そのものが平和へとつながるものと思います。
イエス様はいろいろな所で、姿、形を変えて私の前に現れます。とっさの自分の行動や、人とお話をしている時の私の心の動きなど、いつもの普通の日常の中で、イエス様は私の前に現れます。そして私はイエス様の教えに気が付かずに自分を中心とした、自分の都合に合わせた生活を日々過ごしているので平和はどんどん遠ざかってしまいます。ですから平和の火を消さないためには、神様を求め続けていくことなのだと思います。マタイ7:7-8にあるように「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」と、この聖句のように、神様を求める薪をどんどんくべていける人生でありたいと思います。