サムエル上24:8−18/ガラテヤ6:1−10/ルカ7:36−50/詩編38:10−23
「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。」(サムエル上24:18)
イスラエル王国最初の王はサウルです。このサウルに油を注ぎ、王としたのは預言者サムエル。そしてサムエルの命じたことに従わなかったサウルはサムエルから見捨てられ、代わりに立てられたのはサウルの家臣であったダビデです。もちろんサムエル記は信仰の書物ですからサムエルの一つひとつの行為はすべて神の御心であり、神の言葉が預けられたものだという理解に立って書かれていますが、もちろんそれはそれで全く構わないのですが、仮に「神」ということを外してみたとしても、このサムエル記に描かれている情景は一つも矛盾を持たないように思えます。つまり、神の意志だったかどうかを問わなくても、サムエル・サウル・ダビデの人間関係の物語としても、十分成立するのではないかということです。
子どもの頃教会学校でダビデの話はさんざん聞かされてきました。少年ダビデがゴリアトを石投げで倒す件は子ども心に胸ときめかせたものですし、竪琴の名手であったことも他のごつい登場人物とひと味違った趣がありました。けれどもある教会の集会でサムエル記を読み進めるうちに、そういういわば既定路線のダビデ像とはそぐわないことがたくさん見えるようになりました。一度そういうことが見えはじめると、逆にダビデのそういうところしか目に入らなくなり、そうこうするうち私には子どもの頃から聞き慣れてきた既定路線のダビデよりも、サウルの方に感情移入しやすくなっていることに気づいたのです。
サムエルは年老いて、二人の息子が士師としてイスラエルを導いていたのですが、その有様は不正が多く、民衆からは見捨てられていた。だから民衆は他の諸国同様に王制を敷いて欲しいと願います。サムエルにとってこれは苦渋の決断だったのですが、つまり信仰の人、神の言葉を預かる人としては、神こそがイスラエルを治めるという建て前がある.一方、民衆が王を求めるのは自分の子どもたちが無能であるゆえに突きつけられている要求です。だから聖書としては、神がサムエルを慰め「民衆が棄てるのはサムエルではなく神であるわたしだ」とまで言わせる。それで漸くサムエルは人々の求めに応じてサウルを王に立てたわけです。
当時イスラエルはペリシテとの厳しい戦いに迫られていました。ペリシテ軍に対峙するサウル軍は、サムエルの到着を待って出陣の礼拝をしょうと準備しますが、サムエルがなかなか来ない。その理由は明らかにされていません。そこでサウルが預言者の職務を代行して焼き尽くすささげものを焼き捧げ、戦いに勝利します。しかしこの越権行為が決定的となってサムエルはサウルを断罪し、以後彼を避けるようになりました。それがサウル王にとって大きな痛手となったのです。
王権末期にサウルは台頭してきたダビデを殺害することを企てます。それはサウル王がダビデに対して妬んだからだと説明されます。しかし、サウルとサムエルの関係を考えると、あの時どうしてサムエルの到着が遅くなったのか聖書にその理由は記されていません。その場面の前にサムエルは隠退宣言をしているのです。ところがイスラエルの重大事態になったので、再び民を裁く職に就き、サウルとの間に「8日待て」という取り決めをしたということは分かります。ところが約束の日に現れない。国の一大事に欠席や遅刻をしたら、国会議員なら「議員辞職勧告」が提出されるかも知れないような事態でしょう。今さらサウル王の心を試す必要があったのかどうか、ひょっとして王となってサウルが民を導くその姿にサムエルが妬んだということだってあったかも知れません。サウル王は王権末期には精神的に追い詰められていたこともよく知られています。これも「信仰」に関連づければ「神がサウルを離れた」と説明されますが、実際はサムエルとの関係がサウルを最も悩ませたのだとわたしは思うのです。そう、サウルを追い詰めたのはサムエルです。
一方ダビデはサムエルからはとても自由でした。実質的にダビデに王権が渡る頃にはサムエルは既に亡くなっています。もちろんイスラエルにはいつも誰かが立てられて神の言葉が預けられるのですが、サウル時代のサムエルのような偉大な存在はダビデの時代にはありませんでした。だからこそダビデはのびのびと自由に王権を振るうことが出来た。彼の生涯は常に戦争でした。そんなことが可能だったのも目の上にたんこぶがなかったからかも知れません。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(ガラテヤ6:1)。確かにそれが出来れば素晴らしいです。この箇所は、言ってみれば「神の心による人間関係の処方箋」です。まず自分を吟味し、自分が誘惑されないように十分注意した上で、罪を犯している相手に柔和に接して立ち返らせる。理想的な人間関係です。そしてそのハードルはとてつもなく高いです。
サムエルは預言者であったけれども、サウル王との関係はどうだったのか。パウロがガラテヤの信徒に当てた「人間関係の処方箋」のように、あのサムエルはそのように出来たのかどうか、はなはだ疑問です。サウル王は立ち返ることが出来ずに破滅していきました。彼がイスラエルにもたらした成果は莫大なものでしたが、彼自身の最期は人間的に見て淋しいことでした。大預言者サムエルにしても、神の御心をそのまま写し込むような広く柔和な心を自分のものとするのは極めて難しかったということではないでしょうか。
わたしも時々「お前は神かなにかか!」と酷評する内側からの声が聞こえてきます。まるで自分が神のように正しいと傍若無人に振る舞うからです。しかし、当然ですがわたしは神ではありません。キリストの心さえ何も分かっていない一人の人間に過ぎません。人と人との関係をただす処方箋など何も身につけていないのです。ただ、神さまはそのようなわたしを、ただご自分の愛ゆえに今この瞬間も生かしておいてくださっている。その事実をせめてまっすぐに受け止める者でありたいと思います。それさえ極めて難しいかも知れません。しかし、それを求めないわけには行かないのです。今、確かに生かされているのですから。その命には、なにがしかの意味が与えられているのですから。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしの中には救われるに足りる何もないのに、神さまは今日もわたしに新しいいのちをおあたえになり、「生きよ」とお命じになります。何もないにもかかわらず、そうされていることだけが事実としてわたしの前にあります。その事実を受け止めることが出来ますように。そしてそこに神さま、あなたの思いを見出して、人と人と共に生きて行くことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。