申命記8:11−20/使徒4:5−12/ルカ8:40−56/詩編52:1−11
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)
会堂長という仕事をしていたヤイロの娘が癒される話は、マタイ、マルコとこのルカとに載っています。どれも、いわゆる長血を煩っていた女の癒しの話と一緒に掲載されています。少しずつ異なるのは三つの福音書それぞれの編集意図があるからでしょう。でも三つに共通することでわたしには不思議だなぁと思うことがあるのです。
ヤイロは、自分の12歳近くになる娘が生死の間をさまよっている状態が不憫でならず、イエスの下をたずねて、癒してほしいと願う訳です。福音書によっては「しきりに願った」(マルコ5:23)と書かれていますが、それはそれは熱心にイエスに家に来てもらうことを願ったことでしょう。そしてイエスはそのヤイロの願いに同意されて、これからその家に行こうとされていたまさにその時に、ハプニングが起こったのです。
このハプニングのせいで、イエスの足は完全に止まってしまいます。群衆が押し寄せているにもかかわらず、「わたしに触れたのはだれか」(ルカ8:45)と真剣に探し始めたのです。すったもんだの挙げ句、ようやく当の本人が名乗り出て一件落着となった途端、心配していたことが起こってしまいます。「お嬢さんは亡くなりました。」(同49)。
ヤイロは、最愛の娘を案じて、その回復の望みをイエスにかけて出かけてきたのです。臨終の枕元を離れるヤイロの行動は、並大抵のことではなかった。しかし彼にはイエスへの望みの方が勝ったということでしょう。それほどまで信頼して側にやってきたのに、そしてその熱意にイエスも応えてくださろうとしていたのに、ハプニングです。
そういう状況なのに、わたしがいちばん不思議に思うのは、ヤイロが何も言わないということです。心配や不安、いらだちがあって当然なのに、マルコもルカもそのことには触れません。マタイ福音書では、娘が死んでからヤイロがイエスの下を訪ねているので、マルコやルカとは明らかに場面設定が異なります。当然ヤイロは一言も語りません。しかし、ルカでもマルコでも、マルコは特に長血を患っている女の癒しを詳しく綴っていますから、文量通りの時間経過だと考えると、ヤイロは相当イライラさせられたはずです。なのに、二つの福音書はそのことに全く触れません。それがとても不思議なのです。
もちろん物語は、「長血」と「死」という、どちらも当時の社会習慣でいう「けがれ」に結びついています。そしてイエスはけがれを嫌わず、それに自ら触れることによって癒しの奇跡を、その力、神の力をそこに表されたのです。それが中心なのでしょう。でも、それでも、ヤイロの忍耐は特筆されるべきではないでしょうか。
わたしは東北人ですが、東北の牧師たちの間でまことしやかに語られる話があります。それは役員会で沈黙に絶えられなければ長続きは出来ない、という物語です。「無口」「無言」というのは、強烈な意志の表現方法の一つです。何も考えていないのではないし、意見がないのでもありません。ただ、自分の意志を「沈黙」という方法によって表現するのです。わたしも何度もそういう場面にぶち当たりました。それはなかなか厳しいことでしたが、しかしたくさんのことを教えられた経験でもありました。今は「空気を読む」などという不可解なことがさも当然のマナーように言われますが、沈黙する相手の「沈黙」という表現方法を読み取るのは、世の中で言われている「空気を読め」などという軽薄なありかたではありませんでした。
イエスの十字架の出来事、その場面で、神は「沈黙」されました。同じようにキリシタン時代の日本で神は「沈黙」されました。遠藤周作はこれをテーマに「沈黙」という小説を書きました。3・11以来、特に原子力発電所の事故は、人間の業に対する自然界の反撃、沈黙の反撃なのかも知れません。言葉にならない様々の出来事を通して、しかしやはり神は語りかけておられるのではないか。沈黙という言葉で、神はわたしたちに語りかけておられるのだ、とわたしには思えます。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)。神が沈黙する時、わたしたちはその神こそ救いの神だと本気で信じられるでしょうか。ヤイロは現実を超越した存在ではありません。むしろ逆で、現実に振り回され、惑わされた一人の人です。しかしそのあたふたした様に、イエスはちゃんと信仰を見出してくださっています。わたしたちは、語る言葉さえ失ってしまう現実に直面し、自らの力の足りなさのみ強調される日々の中で、振り回され見失いながら歩いている。そのおろおろした歩みこそ、わたしの現実であり、わたしの真実そのものです。それ自体は事柄を解決にみちびくにたる何かをもっていたり示したり出来ることでは全くありません。文字通りオロオロしている。でも、そのオロオロしている中で生まれるものこそ、信仰なのではないか、と思う。そしてわたしたちの主は、それをちゃんと見出してくださるに違いないのです
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。人間ひとりの力などでは決して解決できない様々な難問難題に満ちた毎日を、わたしたちは何の処方箋もないままにただ振り回され踊らされ、オロオロさせられながら過ごしています。そんなどうしようもないわたしの現実の中に、わたしたちの主は「信仰」を見出してくださる方であると知りました。わたしたちがオロオロしているとき、その私をまるごと救ってくださるあなたのご計画があるのです。どうぞそのことを信じる勇気を与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。