出エジプト19:3−8a、16−20/使徒2:22−36/ルカ10:17−24/詩編8:1−10
「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒2:36)
ペンテコステが聖霊降臨の日で、聖霊の力によって弟子たちが立ち上がり、イエスをキリストだと宣べ伝え始めた、その結果世界中に福音がもたらされ、世界中に教会が生まれることになった。そのことを憶え、記憶に留め、確認するためにわたしたちは先週、ペンテコステを祝う礼拝を行いました。
そして同時に教会暦は聖霊降臨節というおよそ1年の半分という長い期節の歩みに入ったわけです。その最初、主日で数えれば聖霊降臨節第2主日である今日を特別に三位一体主日と呼ぶのですが、天地をつくられた父なる神がいて、その神によって地上でわたしたちと共に歩み、十字架で殺され、陰府に降り、復活し、天に挙げられたイエスが救い主にして子なる神、そのイエスキリストが約束された別の助け主である聖霊がわたしたち一人ひとりの上に降り、オーソドックスキリスト教が宣べ伝える三位一体の神がすべてを満たしてくださることを憶え、また実感する歩みに入る。それゆえこの日を特別に三位一体主日と呼ぶ習わしになったのだと思います。
主の昇天を覚える礼拝を捧げた折に、主イエスの復活を4つの福音書がどのように取り上げたかを見ました。ルカ=使徒言行録が主の昇天を書き留めたのに対し、マタイは世の終わりまで一緒にいるイエスを描いていることを確認しました。どちらが正しいとか間違っているというのではなく、そのように描く必然性がそれぞれの共同体にはあったということでしょう。天に昇られて、天からわたしたちを支えてくださるのかも知れないし、肉の体としてはとうに見えなくなったけれどもイエスは今も生きていてわたしたちと共にいてくださるのかもしれない。たとえどちらかであったとしても、神はイエスをわたしたちのとなりに下さった事実は変わりません。そしてその事実が十字架で殺されるということをもって終わってしまった、或いは暴力によって奪われてしまったというわけではないと、弟子たちは考えたのです。「イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」(使徒2:24)とペトロが語るとおりです。弟子たちは自分の生身の人生にイエスを着たのです。上着を纏うように身に付けた。身に帯びたのです。パウロが手紙の中でそのように表現していますが、おそらくそうとしか言いようがなかったのでしょう。そこに込められているイメージは実に豊かです。聖霊が降るということをパウロはそのように表現したのでしょうし、ペトロは文字通りベロが降ってきたかのように、立ち上がって別人のように大群衆に説教をするようになった。それこそがペトロにとっての復活体験だったのでしょう。力が降ってきたとしか表現できない姿です。ひょっとしていちばん驚いているのは、語り終えたペトロ本人かも知れません。それほどの豹変ぶりです。
彼らは皆、自分の生身の体に起こっている変化を、それぞれのことばで表現し、そして語ったのだと思います。大群衆であろうと、法廷であろうと、お構いなしだった。大祭司の庭で召使いの女性に「あなたもイエスの仲間だ」と言われたとき、血相を変えて否定し、逃げ去っていったペトロと、今群衆の前で説教しているペトロが同一人物であることは、驚き以外の何ものでもありません。その驚きを引き起こしたのはペトロその人の能力ではなく、やはり彼の上に降った「力」でしょう。「力」としかわたしも表現できないのです。その結果彼らは取り調べられたり投獄されたり鞭打たれたり、ステファノのように石で打ち殺されるという悲劇も起きました。でも出来事が動き出したらもはや誰もそれを止めることが出来なかったのです。その後300年以上に亘り、キリスト教は大迫害の時代を迎えます。それでも動き出した出来事を止めることは出来なかった。信徒だと知れたら殺されるのに喜んで名乗り出る者が大勢出て来た。ついにはローマ帝国の方が負けてしまう。そういう事態を引き起こしたそのみなもとは一体なんだったのか。「力」が降ったとしか言いようがないのです。
第単に神の救いの計画と、イエス・キリストの上に怒った驚くべき復活の出来事を力強くペトロが語るとき、イエスを殺したユダヤ人は神に敵対する存在で、イエスに最初から従った自分たちは正義だ、みたいな単純な二分法を彼は使いませんでした。いや、おそらく使えなかったのです。何故なら、自分もまたイエスを裏切り見捨て、呪いの言葉さえ吐いてイエスを否定したのです。だから彼は聖霊の力を得てもおそらくイエスに対して憐れみを願い続けていたのではないかと想像するのです。
わたしたちがこの世で生きて行くときには、どうしたって敵と味方に2分しないではおれないのです。牧師の世界など、まさにそうだと思います。教会会議といえども例えば教区総会のように政治的場面ではどうしたって立場の違いが表面化し、時にその違いは修復不能です。けれども、それでは主イエスのお命じになった、例えば「汝の敵を愛せよ」とは真逆です。だからわたしたちは、この世で生きて行くかぎり、せめてイエスとは真逆であることを肝に銘じる以外ないと思うのです。神やイエスは私の味方だ、わたしたちだけの味方だなどとたとえ思いたいのは山々であっても、それではダメなのだと思います。
わたしたちこそ、主のあわれみをこいねがいつつ歩む以外に道はないのだと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。聖霊が降った弟子たちは、それまでの彼らとは全く別人のように力強く神の救いを証ししました。それは彼らが一点の曇りも非の打ち所もない完全な人間になったからではなく、神さまあなたとわたしたちの主のあわれみによるのです。そのことを心に銘じて、わたしたちもまた古の使徒たちとともに、驚くべき神さまの救いのわざを証しし続けることが出来ますように、導いてください。キリエ・エレイソン、主よ憐れんでください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。