創世記11:1−9/使徒2:1−11/ルカ11:1−13/詩編146:1−10
「人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」(使徒2:7−8)
ジャズサックス奏者で渡辺貞夫という人がいます。通称ナベサダと呼ばれています。わたしは吹奏楽部でトランペット吹きの小生意気な中学生でしたから、いろいろな音楽家の演奏をラジオで聞いては吸収しようともがいていました。ナベサダはそんな地方の中学生の憧れの一人でした。
このナベサダの逸話としてラジオだったかテレビだったかで披露されていた話があります。アフリカのある国に演奏旅行に行ったそうですが、空港の入国審査官の虫の居所が悪かったのか、なかなか審査が通らなかったらしいのです。そこで彼は自分の荷物の中からサックスを取りだしてイミグレーションで即興演奏を始めた。すると審査官もゴキゲンになって審査をあっさりパスしたというのです。その時のトークテーマは「音楽は世界共通」ということで、その実例として紹介されたのだったと思います。
語学がからっきしダメで、英語の試験がある度に「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒2:4口語訳)をうらやむような中学生でしたが、幸い小さい頃から鍵盤楽器には触れていたので楽譜は読めたのです。それがまるで言語のような働きをするとまでは思いませんでしたが、このナベサダさんの逸話を聞いたときに、確かに楽譜は世界共通だなぁと思ったのでした。
ペンテコステには必ず使徒言行録2章が読まれるのですが、それはとても印象的な場面です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(同1−4)。ここで「炎」と書かれているからペンテコステは「赤」のイメージがあるわけです。ところがそれは単なる炎ではなく「炎のような舌」です。口語訳では「舌のようなものが、炎のように分れて」とありました。「炎のような舌」は「舌」は舌ですがそれが「炎のよう」だと言っているわけです。口語訳だと「舌」なのかどうかもわからないわけですよね、「のようなもの」ですから。その「ようなもの」が「分れて」、つまりひとかたまりではなく弟子たち一人ひとりに行き渡るそのさまが「炎のよう」だというイメージでしょうか。
新約聖書原典はギリシャ語ですが、原典に近いのは新共同訳で、3節は「わかれわかれに、舌が、炎のように」と書かれています。そしておもしろいのは「ほかの国々の言葉で話しだした。」と訳されている4節ですが、ここで「言葉」と訳されている単語は3節の「舌」と全く同じ単語です。それを最大限尊重したら「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の『舌』で話しだした。」となります。この「舌」は聖書の中でもちろんそのまま「舌」という意味でも使われますが、この使徒言行録のように「国語(つまり『他の国々のことば』=他国の国語」という意味でも使われますし、宗教的には「異言」という意味でも使われています。
プロテスタントキリスト教の教派で今日世界でいちばん信徒数が多いのはペンテコステ派と呼ばれるグループですが、このルーツは1901年米国カンザス州ピトカにあるベテル聖書学院です。ここで年末年始祈祷会が開かれていたのですが、指導者チャールズ・パームをはじめ神学生のほとんどが「聖霊降臨」を体験し、異言で神をほめたたえたことが契機となっています。つまり使徒言行録2章そのままの出来事が1901年に起こったというのです。ペンテコステのシンボルが「赤」であり「鳩」であり「舌」であり、そしてその「舌」は「異言」と結びついてもいるということでしょう。
使徒言行録でも1901年の出来事でも、それは周囲の人をいたく驚かせることだったに違いありません。「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」(同6)という言葉がそれをよく現しています。余談ですが、ハリーポッターの第2話「秘密の部屋」で、ハリーが授業中に蛇語でコブラと会話したためにクラス中が教師も生徒も凍り付いてしまう場面があります。彼が「蛇語」という「異言」を語ったことにみんなが凍り付いたわけです。使徒言行録の場面では様々な国の人たちが大きな物音に驚いて集まってきたのだけれども、その驚き以上に、ガリラヤというちょっと蔑まれている地方出身の名もないそしておそらく無学な漁師風情が、多くの国々の言語で神を賛美しているさまを目の当たりにしたからでしょう。そしてハリーポッターと違うのは、その事実を目の当たりにした人々は凍り付いたりはしなかったということです。彼らはそこに集まって期せずしてペトロの説教を聞くことになった。その結果「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」(同41)のです。
神が用いようと思うなら、誰でも、なんでも用いられる。そしてそれが神のご計画ならば、わたしたちの目には不思議としか思えない、あっけにとられることかも知れないし、合理的に説明しようとしたら「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(同13)としか説明できないようなことかもしれない。でも、そういうことが引き起こるのです。それこそ神の力なのです。そして、驚くべきことに神さまはこのわたしにも、わたしたちにも、用いるための賜物を与えてくださっているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。神さまからの力であり、また別の助け主である聖霊が降るとき、わたしたちの目には不思議としか思えないような出来事が起こります。炎のような舌を与えられた弟子たちは、その舌で口々に神さまの偉大な業を語りました。彼ら一人ひとりに豊かな賜物が与えられたのです。わたしたちにも神さまが特別な賜物を与えてくださっていることを思います。それを活かし用いるすべをわたしたちに示してください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。