エゼキエル43:1−7c/使徒1:12−26/マタイ28:16−20/詩編105:12−24
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18−19)
イエスが復活するという驚くべき、そして極めて理解しがたい出来事を4つの福音書はそれぞれ独特の視点で書き留めています。
マルコ福音書は16章の1節から本来は8節までで終わっていたと考えられています。仮にそうだとしたらそこに記されている最後の言葉は「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)です。ここを読む度にわたしは、この婦人たちの態度こそ私の思いそのものではないかと考えています。彼女たちには目に見たことも、白い衣を着た若者がいたこともその言葉もすべて、理解できなかったし正気を失うようなことだったのです。わたしにしても同じです。ただマルコが意図しているように、だからこそ何度も何度もイエスの福音に触れて、少しずつ神の御心が分かるようになりなさい、ということなのでしょう。
ヨハネ福音書はとても印象的なトマスの話や、3度イエスを否定したことで傷ついているペトロをイエスご自身がその足元まで降りてきて、癒してくれる話しが綴られています。でもヨハネが書く復活の主にまみえることの中心は、むしろそういった心温まる話ではなく「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)ではないかと思います。先週お話ししたとおりです。
ルカ福音書は他と並べてみれば随分詳しく物語を綴っています。エマオへの道行きもとても印象深い話ですが、使徒言行録の冒頭までイエス復活と昇天の話は続いているのです。他とは圧倒的に量が違いますが、それ以上にその間の時間を明示している点で極めて独特です。復活の主が弟子たちと共に過ごしたその期間が40日だと書いているのです。使徒言行録1章です。ですから代々の教会は、イエスの十字架から40日目を、今年で言えば5月18日を「昇天日」と呼び習わしてきたのです。
マタイ福音書のイエス復活の記事は28章にまとめられていますが、簡潔な報告であることはマルコを踏襲していると言えます。そして独特なお話として「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」(マタイ28:13)という祭司長たちの言葉を記し、ユダヤ当局では今に至るまで「イエスは復活したのではない、弟子たちが遺体を隠したのだ」と主張していることを書きます。しかしイエスご自身はそういう世間のざわついた状況と全くかけ離れて弟子たちに会い、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(同20)と、彼らを祝福して言うのです。ですからイエスが天に昇られたり、それによって弟子たちの側から離れるというルカが書くようなことは記されていません。むしろ今この時も「いつもあなたがたと共にいる」のです。離れていない。マタイにとってそれが重要だったということでしょう。
これらの福音書を読み、或いは比べながら、イエスが天に昇られるということを何とか心にイメージしてみるのですが、どうしてもわたしはルカのようにはイメージできないことに気づきました。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24:50−53)。イエスが弟子たちの側を離れてしまうのに、彼らは「大喜びでエルサレムに帰」る。ここがどうにもイメージしがたいのです。
わたしの母方の祖父はわたしが小学校4年生の時に亡くなりました。確かまだ66歳だったと思います。祖父はとても元気な人で体格も良かったのですが、祖母は病気のデパートのような人で、いつもたくさんの薬を飲む人でした。ところが祖父の方が病気になって半年もしないうちに召され、祖母はその後元気に私の長女をその腕に抱き、94歳を過ぎてから庭先で心臓発作を起こし、苦しみもせず一瞬で召されていったのですから、人の往生は理解しがたいものがあります。
この祖母は、祖父の葬儀の間に倒れてしまうのではないかという周囲の心配をよそに、孫の目から見てもとても気丈に振る舞っていたのですが、祖父の棺を火葬場の炉に入れてその扉が閉じられた途端に、人目も気にせず大声で鳴きその場にくずおれたのです。4年生の少年には衝撃的な場面でした。もう亡骸であってもその姿を見ることが出来なくなる瞬間に、様々な感情が一気に押し寄せたのだろうと幼いながらに思いながら祖母を見ていました。だから、その姿がたとえ遺体であっても幽霊であっても、側からいなくなることは、どうイマジネーションを膨らませてもわたしには「大喜び」とは描けないのです。
しかし例えば今歌いました讃美歌336番は「主の昇天こそわが身の望み」と謳います。昇天の讃美歌は他に337番338番と合計3曲ありますが、どれも「勝利」であり「喜び」であり「ハレルヤ」と讃えられるべき出来事だと謳っています。
昇天日は平日ですので、わたしたちの教会ではその日を憶えて特別な礼拝を献げたりはしません。でも歴代の多くの教会では、この日は勝利を祝う日、キリストが死に打ち克った日として祝われています。カトリック教会ではこの日の祈願文にこうあります。「主の昇天に、私たちの未来が示されています。キリストに結ばれる私たちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください」。
主の昇天はわたしたちの未来、待ち望むべきことの先取りなのでしょう。「われもいつの日か、み国に昇らん」(21−336)と、わたしたちも心から謳いたいと思います。そしてその日を遙かに望み見つつ、今はこの地上で「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:19)というイエスのことばに、心から従って行きたいと願います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。復活の主は今もわたしたちと共にいてくださるとの約束をわたしたちに与えてくださいました。それはそのまま神さまがいつもわたしたちのそばにいてくださることを意味します。そのあなたの力に支えられて、今日があることを心から感謝します。終わりのときにどうなるのか、わたしたちにはわかりません。しかしあなたの救いと祝福を信じ、その時まで、わたしたちの主の最期の命令を心に留め、従ってゆきます。どうぞわたしたちを導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。