出エジプト16:4−16/Ⅰコリント8:1−13/ヨハネ6:34−40/詩編78:23−39
「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。」」(ヨハネ6:35)
先日四谷の教会で「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」の講演会があり、講師として来てくださったのは北海道大学名誉教授の小野有五先生でした。小野先生は地球生態学・環境地理学の専門家で、今北海道で核の最終処分場を受け入れると突然言い出した寿都町や神恵内村で「地層処分を今してはいけない」という運動や講演活動をなさっています。
この講演の中で、神さまが創った世界を人間が壊してしまっている現状を、大気中の二酸化炭素濃度から説明してくださったのでした。
大気中の二酸化炭素濃度はだいたい300ppmから氷河期の100ppmまでの間を行き来していたようで、これが神の創った世界なのだとした上で、20世紀になるとこれがどんどん増えて今では400ppmを超えている。21世紀の終わりには700ppm辺りに達しそうだと仰います。二酸化炭素は人間の活動によって増えて行くわけで、明らかに人間の手によって神の創造の世界が壊されているのだ、と。
その文脈の中でこんなお話もされました。人間は一万数千年前に狩猟生活から農耕生活に変化していった。狩猟生活は本当に動物と人間が対等だった。まだ鉄砲なんかない時代、下手したら人間の方が殺されてしまうかもしれない。だから人間は動物の命をいただくんだという考えを持っていた。ところが、狩猟から牧畜を経て農業、そして都市文明になっていくと、意識がどんどん変わっていった、と。その話を聞きながら、わたしはずいぶん昔のことを思いだしていました。
神学生時代に夏期伝道実習を仙台北三番丁教会で行いました。そこに小学校5年生になる不登校の男の子が来ていて、なんだか馬が合って夏の間中良く一緒にいました。子どもの礼拝にも出席し、大人たちの礼拝の間も教会で過ごし、午後には青年たちと一緒に楽しい時間を過ごしていたのです。その流れで青年たちの修養会にも参加しました。
涌谷という宮城県の北部にある教会で、農業を営む教会員が生きた若鶏を一羽プレゼントしてくれて、それをつぶして一緒に食べようということになって、この5年生の子が大活躍をするのです。農家のお父さんに習って鳥を羽交い締めにし、頸動脈を切るところも立ち会い、その鳥を湯にひたして羽をむしり、肉に解体していく作業もすべて喜んで手伝いました。わたしはその姿をたくさん写真に収めていました。
仙台に帰って、「自由研究を手伝ってほしい」というので、涌谷で鶏をつぶして食べた経験を書いたらどうだと勧めて、一緒に模造紙にその顛末を書いて、たくさんの写真を貼り付けていきました。自由研究の作業は、いろんなことを思いだしながら言葉にして行く作業です。鳥を解体するときに羽根の骨がボキッと折れたとか、解体した鳥をゆっくり大鍋で煮てスープを取ったけど、一緒に参加した女学生たちは食べなかったとか、次々に出てくる言葉を文字にして模造紙に書き込んで行くわけです。その中でポツンと、「鳥のいのちを食べたんだなぁ」と呟いた。その言葉が自由研究のキーワードになったのでした。
今日の福音書は6章34節からですが、イエスの言葉はその前から続いています。直前の33節ではこんなことを言います。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」。そこで群衆がそのパンをくれと言うと「わたしが命のパンである。」(同35)とイエスは答えているのです。群衆は食べるモノに困らないように、モーセが人々にマナを与えてくれたように、イエスにもそういうパンがあるならくれ、そうしたらイエスこそ神が遣わした人なのだと信じられる、と言っているのですが、イエスは単に飢えを満たすための物理的なパンの話ではなく、イエスを食べるということの意味を説きます。でもこれが決定的になって「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(同66)という事態を迎えたのでした。
それはどういうことでしょうか。わたしたちはイエスの肉を食べ血を飲むことでしか永遠のいのちを得られないのだけれど、しかし、そのこと自体がわたしたちを分裂させる、現に分裂を引き起こしているということでしょう。
肉を食べ血を飲むなんて考えられないと思うほうがひょっとしたら大勢かもしれないのですが、事実イエスの血を流しその肉を切り刻んだのはわたしたち自身です。そればかりではなくあの5年生の少年がいみじくも言ったように、わたしたちは無数のいのちを食べなければ自分の命を繋ぎとめることも出来ないのです。それは命の持っているある種の限界でしょうし、それがキリスト教が説くいわゆる原罪でもあるかも知れません。
肉を食べ血を飲むということは、自分が罪ある存在であって、罪無くして生きられない存在であることを、その度に思い起こす決定的出来事であるはずです。だからわたしたちは、それとは真逆に、食べ物と命をできるだけ分けて、まるで無関係であるかのようにしなければ、その度辛くなってしまう。だからスーパーで魚は切り身で売られ、肉はそのまま食べられるような姿で売られています。これらがすべて流れる血を持っていたなんて想像さえしなくて良いようにしないと売れないでしょう。しかしイエスは、それが直結していることをその都度しっかり心に刻む者こそが、永遠の命をいただくのだという風に言っているようにも聞こえるのです。
誰であっても、他者の命を奪いそれを貪らないと自分の命を繋ぎとめることさえ出来ない。それがわたしです。そういう罪ある者、いや罪しかない者を、それでもなお生かし、それだけでなく罪のど真ん中で生きる意味を与え、生きることをゆるしてくださる神がいる。それが神の救いなのかもしれないと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。文字通りわたしたちは、いのちを食べなければ自分が生きられません。他者の命を奪うことによって自分の命を繋ぎとめているのです。そのような命に本当に意味があるのでしょうか。しかし神さま、あなたはそういう罪を背負ってなお生きよとわたしたちに命じられるのです。わたしたちの主イエスは、わたしたちによって殺され、あなたによって生かされました。わたしたちの罪の事実を覆い隠すためではなく、むしろわたしたちの罪を誰の目にも顕わにするために、主イエスを十字架に磔にされたのです。その事実から目を逸らすなと、目を逸らさないことこそ赦しなのだと、あなたは語り続けてくださいます。その声を見出すことが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。