列王下7:1−16/黙示録19:6−9/ルカ24:13−35/詩編16:1−11
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」(ルカ24:13−14)
今日のルカ福音書はいきなり「ちょうどこの日」という言葉から始まります。どの日なのかはこの箇所より前を読まないと分かりません。
そこに書かれているのは安息日開けの、「週の初めの日の明け方早く」(ルカ24:1)という時間でした。つまり、正式な弔いのために安息日が開けるのを待って、明け方に婦人たちが墓に行ってみると遺体が消えていて、「輝く衣を着た二人の人」(同4)がイエスが復活したことを告げ、それがイエスから聞いていた言葉のとおりだと思いだし、弟子たちのアジトに帰って行って「一部始終を知らせた」(同9)のだけれど、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(同11)中で、ペトロだけが墓まで確かめに行ったら婦人たちの話しの通りだったことが分かり「この出来事に驚きながら家に帰った」(同12)「ちょうどこの日」ということになります。
おそらくこの「二人の弟子」は婦人たちの一部始終を聞いて墓に走ったペトロが「驚きながら家に帰った」直後にアジトを出てエマオに向かったということでしょう。「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」(同24)と同行する旅人に話していることからそれがわかります。
この二人に何か急ぎの用があったのかどうかはわかりません。ただ、同信の者たちがざわついているそのさなかにその場所を出なければならなかったのですから、よほどの事情があったと見るべきかも知れません。「六十スタディオン離れたエマオ」とわざわざ距離が書いてあります。1スタディオンはだいたい185メートルだそうで、その60倍は約11キロということになります。東京日本橋から品川宿までが8.1キロ、歩いて2時間弱でしょうか。大森駅までなら12.7キロだそうです。
そんなところに出向いている弟子、名前はそのうちのひとりしか知られていません。「その一人のクレオパという人が答えた」(同18)とあります。そしてわたしたちの持っている情報に照らしてみたら、この人はいわゆる「使徒」と呼ばれる12人ではありません。ところがこの人について別のところに情報があります。ヨハネ福音書の19章、イエスが十字架に磔られたその側に女性たちが立っていたことが書かれています。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(19:25)。ここにある「クロパ」がどうやらクレオパのことらしいのです。であれば、今エマオを目指している二人はこのクレオパとその妻マリアなのかも知れません。
この旅人二人に後ろから近づいてきた人が声をかけます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(ルカ24:17)と。ヨハネの情報によればクレオパの妻マリアは十字架の側に立ってイエスの臨終を見届けています。先週お話ししたマグダラのマリアと同じように彼女と夫クレオパの頭は、イエスが十字架で死んだというところで終わっているのでしょう。もうそれだけで頭の中がいっぱいで、だから「二人は暗い顔をして立ち止まった」(同)。
「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(同16)とあります。彼らもイエスを認識できないのです。しかし、マグダラのマリアと違うのは、その認識できない理由が「二人の目は遮られて」いる。誰が遮っているのか。それは神さまでしょう。
ところがこの二人が同行者と一緒に宿に入り、食事の席に着いて、「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」(同30)というのです。この「目が開け」は原文では受動態です。それを汲んで訳したら「目が開かれて」となります。明らかに「遮られて」と対をなしているでしょう。神が遮り、神が開く。それがパン割きの場で引き起こされたということです。
しかもそれがいわゆる「使徒」ではなく、しかもエルサレムででもなく、多くの仲間のうちの二人で、旅の途中だったこと、それだけでなくこの二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(同32)というのです。彼らの心の中に既に植えられたタネがあって、それが今この瞬間に芽吹いているのです。
ということはどういうことでしょう。この物語は、イエス亡き後、しかもイエスの生と死とを証しするつとめに任じられた使徒たちも亡き後も、それに続く心燃える弟子たち、イエスの復活を告げ知らせる務めを担った者たちの足によって、エルサレムから始めて、もう11キロ先といわず、世界の果てまで福音が宣べ伝えられているのだという、とてつもなく広く長い物語の始まりなのだ、ということではないでしょうか。
先週わたしたちも、この教会でイエスを証しする群れを守る務めを3人の執事に託し、その就任式を行い、イエスのパン割きの業を今に伝える聖餐式に与りました。その時わたしたちの目も開かれ、心が燃えて、今ここに共にいてくださる主を確かに見たのです。今日もまた、同行してくださる主と共に、わたしたちそれぞれのエマオへと進んでゆきたいと願います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの救いの業を証しするために立てられた無数の人を思います。そのひとりひとりが、心燃える思いを持って救いの業を伝え続けました。それが今かたちになってわたしたちの下にも届けられているのです。感謝いたします。わたしたちも心燃やされてその輪に続くものとなることが出来ますように。ひとりひとりを支え導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。