「18歳人口の減少、とくに近年は共学志向など社会情勢の変化の中で、入学者数の定員割れが続き、大学部門の金融資産を確保・維持することが厳しくなりました」。恵泉女学園大の学生募集停止のニュースは衝撃だった。
2019年361人から2022年162人という入学者数の激減から冷静に募集停止を決定したその英断にはむしろ称賛の声もあるが、それでも「残念」という思いは拭えない。
ニュース媒体はそれぞれ、その理由を様々に考察している。そのどれも「ナルホドなぁ」と思うのだが、そしてきっとそうなのだろうと思うがゆえに逆に、「私学」の存在意義について考えさせられるのだ。先週のこの欄は、もちろん4月から我が幼稚園の経営形態が変わるという現実に即しているのだが、それをわざわざ書き記そうと思ったのは、この恵泉女学園の募集停止という事態に押されたためだった。
学校経営は、「とりあえずお代は要らないから…」の悩ましさに尽きる。聞いてもらいたいことがあって、伝えたい思いもあって、それがたとえ万人受けしないとわかっていてもそうせざるを得ない抑えられない思いがあって…語り尽くせないその思いは「熱意」としか言い表しようがない。熱意があるからこそ「経営」が少し2の次になる事だってやはりある。だから「教育」という生業を「損益分岐点」でのみ冷静に見る(見限る)なんてことはやり慣れないし、その分違和感も生じる。ただ、恵泉女学園には大学以外にも中学高等学校という選択肢、しかも強みがあるのだから、「金融資産確保・維持」の選択が称賛される所以でもあろう。我が家との事情の違いである。
となると逆に「儲かりはしないけど、熱意をかたちにし続ける」ことが可能な状態、もしくはそれが許される状態は、逆に幸せなのかもしれない。数値や金額では表現できないという点でまさに「プライス・レス」な価値が、今ここに眠っているのかもしれない。