イザヤ56:1−8/ヘブライ10:1−10/ルカ23:32−49/詩編22:1−22
「そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」(ルカ23:42)
今日は「しゅろの主日」です。今年もこの聖餐卓にしゅろの葉っぱを飾ります。しかしその横には先週までと同じく、灰を満たした器が置いてあります。この器の前に並べてあるのが昨年のしゅろの主日に飾った葉っぱです。もちろん短く切ったものですが、それ以上に何より葉っぱの色と、葉っぱの幅の違いに驚かされます。因みに昨年も今年も同じ木から葉っぱをいただいてきました。長さは短く切ってはいますが、葉っぱを割いたわけではありません。幹から切り離してしばらく置くと、しゅろの葉っぱは一枚一枚がまるで羽根を閉じるように二つ折りになりますが、そのまま乾燥させたものです。
ルカ福音書は「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。」(ルカ9:51−52)という言葉でイエスの受難物語を書き始めたと19日にお話ししました。そしてついにエルサレムに入城するとき、人々が自分の上着やしゅろの葉っぱを道に敷き詰めて、ろばに乗ったイエスを迎えたことを記念するのが今日のしゅろの主日です。尤もルカにはしゅろの葉を敷いたとは出て来ません。マタイに「また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」(マタイ21:8)とあるだけです。だから本当のところそれがしゅろなのかどうかはわかりません。しかしこれを飾ることは、やはり受難週に入る日の象徴なのです。わたしたちはこの葉っぱが干からびてゆく様をこれからほぼ1年間眺め続けることになります。あっという間に閉じた葉っぱが茶色く変わってゆくことが、わたし自身を表しているし、わたしの信仰を表しているからです。
エルサレム入城のとき、群衆がイエスに向かって「ホサナ」と讃え謳ったと先ほどの讃美歌でわたしたちも謳いました。しかし、イエスを誉め称えたのはルカ版によると弟子の集団です。「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。」(ルカ19:37)とあります。ルカにとってイエスがどういう人であるのかは、その活動の初めからみんなに知れ渡っているわけですから、この「弟子の群れ」は群衆のことなのかも知れません。しかしマタイもマルコも少なくとも「弟子の群れ」とは表現していない(マタイは「群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ」(21:9)、マルコは「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。」(11:9))ことから、やはりルカはわざわざ「弟子の群れ」と書いたのでしょう。
するとこの「弟子の群れ」が、僅か数日の間に「ホサナ」から「十字架につけろ」に変わってしまうということになります。「しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。」(ルカ23:18)、「しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。」(同21)。その心変わりぶりは、誰か信仰心のない輩、信仰の薄い者たち、「罪人」たちなのだと決めて、「自分はそちらのグループではない」と安心しようとしているわたしが、いちばん叫んでいるのだと気づかせるための舞台装置なのかも知れません。その事実を味わうために、干からびてゆくしゅろの葉を見続けなければならない。そういうことなのかもしれないのです。
「偉大な生涯の物語」という映画があります。本編は260分という大作だったそうですが、今手に入るのは199分のカットバージョンです。イエスがピラトの下で裁判を受けるシーンはちょっとおもしろいつくりになっていました。ピラトがイエスをどう扱うか民衆に聞くときに、群衆の口火を切って「十字架につけろ!」と叫び始めるのは、あの「時が来るまでイエスを離れた」(4:13)悪魔だったのです。そうでも考えないと、僅か数日の間に「ホサナ」から「十字架につけろ」に変わってしまうカラクリが理解できないのかも知れないとも思いました。しかし、それは確かに合理的、というかご都合主義的解釈で、やはり「十字架につけろ!」と叫ぶのは、他でもないわたし自身であると解釈する他はない。つまり、わたしの側に申し開きできるようなものは何ひとつない、ということです。
主イエスはわたしの叫びによって十字架に磔にされた。主イエスがわたしの罪を背負って十字架にかけられたとキリスト教は語り継ぎましたが、むしろわたしが主イエスを十字架に磔た張本人でしょう。わたしの身代わりに十字架にかかったのはひょっとしたらイエスの横で十字架に磔された犯罪人の一人、しかも十字架の上で主イエスを罵り続けている方かも知れません。もう一人の犯罪人はわたしに向かって語っているのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(23:40−41)。
今、わたしのためのその執り成しを受け入れたいと思います。彼と共に「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42)と祈りたいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わたしたちの主イエスに向かって「十字架につけろ!」と叫んでいるのはこのわたしです。主が生きていては都合が悪かったあの時代の人たちとわたしは、全く一緒です。しかも十字架につけられた主に向かって今も罵り続けています。その私を執りなしてくれるのは、主と一緒に十字架にかかった犯罪人の一人でした。今わたしはその犯罪人と一緒にあなたに向かって罪を懺悔し、救いを求めて祈ります。どうか私を思いだしてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。