出エジプト12:14
「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」(出エジプト12:14)
エジプトで430年もの間奴隷状態だったイスラエルを救うリーダーとしてモーセが現れたとき、もちろん誰もが彼をリーダーとして適任だと思ったわけではありませんでしたが、それでも「もし本当にそうなら」と彼に期待し始める人が増えていきました。ファラオは心の頑なな人だったので、モーセとの交渉を簡単には受け入れませんし、すぐ心変わりする人でもありました。聖書は、「主がファラオの心をかたくなにされたため」(出エジプト11:10)と記します。不思議なことです。
モーセとファラオの交渉は10回にも及び、ついにエジプト中の初子が殺されるという悲劇を生みます。「大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。」(同11:6)というほどの悲劇です。そしてイスラエルの民がその悲劇を避けられるように、過越の備えをするように神が告げた。それが記されているのが出エジプト記12章で、その中に2023年度の聖句の候補として選んだ14節があります。
「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」(同12:14)。「この日」とはエジプトで430年奴隷であったイスラエルが、ちょうど430年目のその日にすべてエジプトの国を出発したその前夜のことなのだと思います。以後イスラエルの歴史に刻まれたこの日を全イスラエルは最も大切な日にしてきました。民族再生の物語はここから始まったのです。
エジプトを出るイスラエルにとって、それは確かに深い喜びの日であったに違いありません。しかしその未明、彼らの周囲には「かつてなかったし、再び起こることもない」叫びが満ちていたのです。イスラエルはその叫び、恐怖のただ中にいたのです。守られているという確信さえ揺らぐほどの恐ろしさの中に彼らは一晩置かれたということでしょう。
新型コロナの世界的パンデミックの中で、わたしたちも例外なく世界的パニックに陥りました。四谷新生教会のことで言えばこのパニックのさなかに主任牧師が辞任するというもう一つのパニックも起こったのです。バプテスト教会は全信徒祭司制度に立つ伝統を持っているとはいえ、パンデミックの恐怖の中で現実的なリーダーを失った教会の混乱は「かつてなかったし、再び起こ」ってほしくもないことでありました。
キリスト教会はそれまでほとんど例外なく「礼拝に出席しましょう」と宣べ伝え、それ自体を信徒の務めと定めてきました。ところが3年前のこの時、これまたほとんど例外なくすべての教会は、多少の程度の差はあれ「礼拝に出席するな」と言い出したわけです。深い考察などする暇もありませんでした。それは文字通り緊急事態だったのです。
その日から3年です。
徐々に落ち着きを取り戻してきたとは言え、ではどうするのかを組織として決定する権威は、あらゆる場所で失墜してしまいました。苦肉の策として「個人の判断」にせざるを得なくなったのです。キリスト教会で言えば「礼拝に出席しましょう」と公然と宣べ伝えられていたときに礼拝を休むためには口実が必要でしたが、パンデミック以後、言い訳を用意する必要がなくなりました。そしてそのことは一人ひとりの信仰が本当に試される事態となったのです。出席することがよいことで信仰深いこと、一方欠席したらダメな信仰、なんていう単純なことを言っているのではありません。言い訳する必要がなく簡単に礼拝を休めるということは、この状況の中でどうやって信仰を維持するのかが一人ひとり直に負うべき責任とされた、ということです。そしてその集合体である教会は、それ自体を共同体としてなり立たせることが出来るのか、その方法も解決の糸口さえも見出せないような、恐ろしい試されかたでした。3年を経ても、教会と信仰を直撃したその課題は、ますます大きくのしかかってきています。いまわたしたちはそういう状況に直面しているのです。
「かつてなかったし、再び起こることもない」叫びが満ちていて、自分もまた恐怖のど真ん中に立たされているその時に、しかし神は宣言されます。「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」。恐怖でしかないその夜を、パニックでしかなかったその日々を、「主の祭りとして祝」えと言うのです。回復を祝うのでもなく、復帰・復旧を望むのでもなく、恐怖とパニックのただ中で、「この日」を祝えと神はいうのです。
事実イスラエルは、430年の記念の日にエジプトを脱出しましたが、すぐさま紅海が目の前にあり、後からはエジプト軍が追ってくるという危機的状況に見舞われます。主の偉大な腕によって海が二つに分かれるという「主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た」(同14:31)のに、今度は尽きてしまった食糧のことで「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。」(同16:3)と言い出す。そしてついに目的の地に入るために40年もの長い間荒れ野を放浪することになってしまいます。40年もの長きに亘ってイスラエルは一人ひとりの信仰が本当に試される事態に直面し続けることになったのです。
わたしたちの今日が、たとえまだパンデミックの恐怖の中にあろうとも、或いは既に個人の責任でその恐怖を払拭しようとしたとしても、一人ひとりの信仰が本当に試される事態に変わりはないでしょう。荒れ野の40年ということは人間の一世代がすっかり入れ替わるほどの年月ということです。わたしたちもおそらくそうやって試され続けるに違いないのです。だからこそ、そのただ中で「あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない。」という神の声に聴き従いたい。不十分でも不信仰でもよい。信じられないままでもよい。今ここで神に捧げられる礼拝を心から祝いたいと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。世界的パンデミックの恐怖を引きずる中で、今日あなたのみ前に進み出たわたしたちが捧げる礼拝を、どうぞ受け入れてください。信仰が試され、教会が存立を試されている今だからこそ、礼拝を喜び、一人ひとりを神さまに捧げることができますように。ここに直に集う者も、ここに直に集えない者も、あなたの祝福のうちに置いてくださいますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。