出エジプト34:29−35/Ⅱコリント3:4−18/ルカ9:28−36/詩編29:1−11
「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31)
ルカは自分で書く福音書の中心を、イエスの旅、それもエルサレムへの旅に置いているフシがあります。それはつまりイエスの受難が福音書の中心であるという点でマルコと全く同じなのですが、しかしルカだけは、エルサレムへ向かって旅を進めるイエスという主題を強く意識しているようなのです。そのエルサレムへの旅の始まりは今日お読みいただいたルカ福音書9章の51節からになります。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。」(ルカ9:51−52)。この言葉はマルコ福音書にはありません。つまりここからマルコ福音書をお手本にしない代わりに、ルカとマタイが持っている伝承や、ルカだけが持っている伝承を用いて福音書を書き進めます。その上で先ほどの51節の言葉はそれらの伝承にはない、ルカがオリジナルとして書き加えた言葉です。つまり、ルカはエルサレムに向かって最期の旅を進めるという舞台装置をイエスの福音の中心に置いたということです。
すると今日お読みいただいた28節からの箇所は、この福音書の中心が始まる直前、前書きとか前振りとかの一番最後の部分に属していることになります。そこに置かれているのが今日の礼拝主題でもある「主の変容」の話しです。
物語自体は不思議な物語ではありますが極めて単純です。弟子たちを連れて祈るために山に登った。すると祈っているうちにイエスの顔が変わり服も輝き始めた。そしてイエスの隣に二人の人がいてイエスの最期について語り合っていた、というものです。
その状況を考えるヒントとして今日出エジプト記が選ばれています。モーセがシナイ山で神から石の板を授かったその後の話しです。山を下りてきたモーセの顔が光を放っていたというのです。麓にいたイスラエルの人たちは、モーセの顔が輝いているのを見て、山の上で何が起こったのかを理解したのでしょう。きっとモーセは、神と直に顔と顔とを合わせたのだ、と。
山とはつまり神に出会う場所なのでしょう。シナイ山という特定の場所が記されているけれども、ルカ福音書に書かれている山は特定の場所ではありません。イエスがサタンの誘惑を受けられたときも「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。」(ルカ4:5)とありましたが、そういう「世界のすべての国々」が一瞬で見られる「高い場所」などこの地上にはないのです。具体的な場所は必要ないし意味もないのかも知れません。むしろ神が直接そこにいる場所なのでしょう。
そしてイエスの姿が変わったときに二人の人がいた、それがモーセとエリヤだったと書かれています。この話はマルコにもマタイにもありますが、ルカ版だけは3人で話し合っていた内容が書かれています。それが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9:31)だったのです。この「最期」という言葉はギリシャ語では「エクソドン」、英語で言うところの「エクソダス」、が使われています。聖書で「エクソダス」と言えば「出エジプト記」のことです。
イエスの側に現れた二人の内ひとりはモーセだったというのですから、エクソダスのリーダーだったモーセがその話をしたことは想像が付きます。ではエリヤはどういう人物だったでしょうか。
エリヤはアハブがイスラエルの王であったときに預言活動をした預言者です。王はバアル神を崇めイスラエルにもバアル信仰が広がっていました。その預言者450人とエリヤは対決します。カルメル山で祭壇を築きそれぞれの神に祈ると、ヤハウェが火を降らせるという奇跡を行い、対決に勝利し、バアルの預言者たちが捉えられて処刑されました。エリヤは自分の後継者としてエリシャを立て、自分はつむじ風に乗って天に挙げられたと列王記にあります。
モーセはイスラエルを率いてエジプトを脱出(エクソダス)したわけですが、それは同時にイスラエルの歴史の新たな始まりでした。エリヤは自身の預言活動を果たした後、神によって天に挙げられたのです。ルカは、この二人が姿の変わったイエスと共にイエスの働きの最期(エクソダス)について語り合ったゆえに、イエスは心を定めて「エルサレムに向かう決意を固められた」(同51)ということだったのでしょう。しかもそれこそがエリヤのように「天に上げられる時期が近づ」(同)いたからなのだ、と言うのです。
「ペトロ、ヨハネ、およびヤコブ」(同28)はこのことを目撃しました。ルカは彼らの行動を「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえてい」(同32)たと記しています。ものすごい体験をしたのにそのことの確証が得られないような書き方を敢えてしています。弟子たちはこの時、間違いなく神体験をしたのでしょう。自分たちでさえそれをどう捉えたら良いかわからないような状態でそこに直面した。だから自分たちが間違いなく体験したのにそれは夢の中の出来事のように、あるいは幻のように思えたという表現なのかも知れません。
彼らが体験して知らされたことは、イエスがこれからどういう旅をすることになるのか、それは巷の熱狂に応えることなのか或いは全く逆なのかを、自分の目で見定めるように促されたということだったのではないでしょうか。
わたしたちは礼拝の度に神の前に進み出ています。わたしたちもあの3人の弟子たちように、それぞれが神体験をしているのです。神体験とは世にも不思議なことが出来るようになる、みたいな話ではなく、神とは何か、わたしたちと神との関係はどのようなものなのかを、それぞれの心の中にハッキリと思い描き、思い知ることなのでしょう。イエスのエルサレムへの旅にわたしたちも「決意を固め」て同行するのか、或いは違う道を選び取るのか。そのことをじっくりと考え、決断するためにこそ、わたしたちは今日も神体験をするのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。主イエスの変容を目撃した弟子たちは、その時その意味がわかりませんでした。しかし、神さまあなたは、特別な体験を通してだけでなく、礼拝によっていつもわたしたちの前に臨んでくださいます。そのあなたを見あげ、わたしたちはいつも決断を迫られているのです。弱い私たちですが、その私たちが心に定める決断を、あなたが祝福しまた受け入れてくださいますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。