創世記6:11−22/Ⅰヨハネ4:1−6/ルカ11:14−26/詩編140:1−8
「主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り/不法の者から救い出してください」(詩編140:5)
今日お読みいただいたヨハネの手紙Ⅰには大変有名な一言があります。ちょうどお読みいただいた次、7節からの箇所です。新共同訳の小見出しには「神は愛」と書かれていますが、そのとおり7節から4章終わりまでは、神が愛であるから、その神を知っているわたしたちも愛を知ることが出来るし、互いに愛し合おうではないかということを書いているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)とある通りです。
ところがそのわたしたちの間に「反キリストの霊」(同3)が来ていると言うのです。或いは「偽預言者が大勢世に出て来ている」(同1)とも言われています。この手紙はヨハネ福音書とよく似ていて、おそらくヨハネ福音書を生み出したグループの中で福音書のあとに書かれたものだろうと予測されています。従ってヨハネ福音書のグループが直面していた様々な問題をこの手紙も抱え続けているわけです。あらゆることを二元論で考えるグノーシス主義がまん延していることへの反駁が、この手紙においても必要だったということかも知れません。とすれば「反キリストの霊」とは、イエスが人間のからだで世に現れたことを否定していた異端グループだったのかも知れませんし、その主義主張を宣伝しているグループを「偽預言者」と呼んでいたのかも知れません。
いずれにせよ、教会の中で、イエスがまことの神にしてまことの人であるという事柄を否定するような言葉が多数飛び交っていたのです。その状況を想像してみると、もはや教会としてガタガタだったのだろうと思われます。
しかしそういう状態は二千年前の話ではないこともまた事実です。統一教会などのカルトに対する相談会に参加していると、明らかなカルト教団が、ごく一般的なキリスト教会を乗っ取った事例などを聞かされます。にわかには信じられないことですが、実際にそういうことがあり得るわけです。ヨハネの手紙の時代もそれに似たようなことが起こっていたのかも知れません。
ルカ福音書ではイエスの働き自体が「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(ルカ11:15)と非難されていたことが書かれていました。ユダヤ教の社会の中でこれは致命的です。悪霊の力で業をなすということは、ヤハウェの神の平和を乱す輩と見做されるということです。ヨハネの手紙が書いているようないわば「反キリスト」「反ヤハウェ」という烙印を、イエスが押されたことなのです。逆に言えば、イエスの業を見てそれが悪霊の頭の仕業に違いないとでも思わなければ、イエスが行っている業を理解できないし説明がつかなかったということでもありましょう。
結局、イエスが行う驚くべき奇跡を目の当たりにしても、そこに神を見出すことは難しくて、逆に悪霊の頭を思い浮かべる方が遙かに簡単だったということです。「洗礼を受けたぐらいでは変わることなど出来なかった」自分のことを顧みれば、このルカが書いている状況を「不信仰な連中の不遜な振る舞い」だと片付けることは出来ません。神の業を目の当たりにして神を想像できないのは、他でもないわたし自身だからです。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」(ルカ11:23)とイエスの叱責を受けているのは、他でもない、私です。そういうわたしが救われる道など果たしてあるのでしょうか。
ところがルカは、イエスのこんな言葉をこの箇所に記しています。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(同20)。
わたしたちは救われるためにがんばらなければならないと決意するでしょう。このままではダメだから神さまの方に向き直り立ち帰るために、悔い改めて洗礼を受けたはずだった。しかし、変わらなかった。悪と戦ってそれに打ち勝たなければ救われることなどないと思ってきたのです。だから何とかがんばろうと。
ところがイエスは、それが悪霊の頭による業に違いないと誹られたとしても、その業が行われているとしたら「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と仰るのです。わたし自身の力で悪を克服など出来ないこのわたしのところに、イエスの業をとおして神の国が既に来ていると宣言なさっているのです。
つくづく、わたしたちは何と幸せなのだろうと思います。自分の悪に打ち克つことが救いの条件ではないとされたのです。それは条件ではなくて、むしろ応答なのだ、と。わたしたちは自分の悪に打ち勝ったから救われるのではなく、既に救われたからこそ自分の悪に打ち克つために生きることが出来る。そのためにこそイエスは受難の道を歩んでくださったのです。
そのイエスの業を信じて、既に救われた者として自分の中に巣くう悪と戦うために生きる。「悪より救い出したまえ」と祈りつつ、一人ひとりが召された生涯を生き抜いてゆきたいと思います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。自分で自分に打ち克つことが出来ない者を、しかしあなたは既に救ってくださっていました。主イエスの業によってわたしたちは神の国に招き入れられていたのです。その事実に感謝いたします。そして、救われた者として、自分の中の悪を直視し、それを克服するための長い道のりを歩み通すことが出来るように、支えと導きとを与えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。