「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(ルカ4:13)
レントに入りました。講壇かけが紫色になり、7本のろうそくが一本ずつ消され、主の十字架を思う期節です。このレントの最初の日曜日は「荒れ野の誘惑」という主題で礼拝が捧げられます。中心となる聖書はルカ福音書で、イエスが40日荒野で悪魔から誘惑を受けられた箇所を読みました。
マルコ、マタイ、ルカの3つの福音書にこの話は収録されています。しかし福音書で一番早いマルコはこの話をかなりあっさり書いています。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」(マルコ1:13)。つまり、「イエスは宣教の始めにサタンから誘惑を受けた」という事柄だけを記しておく必要があったということなのではないかと思います。一方マタイとルカは誘惑の内容が3つあって、サタンとか悪魔とかは驚くべきことに聖書のことばを用いてイエスを罠に嵌めようとするのです。しかしイエスは同じく聖書の言葉をもってサタンとか悪魔とかの策略を破られたわけです。二つの福音書では3つの誘惑の順序がちょっと違いますが、本筋において変わりはありません。
ところが、マタイとルカではちょっとおもしろい違いがあるのです。マタイでは「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。」(4:2−3)とあります。ところがルカ版では「荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」(1b−2)となっているのです。
どこがどう違っておもしろいのか、それは悪魔がイエスを誘惑したのはいつの時点かというところです。マタイ版は40日におよぶ断食が終わってイエスが空腹を感じたときに、絶妙のタイミングで悪魔が「石をパンに変えてみろ」と誘ってきた、というのです。一方ルカ版ではどうか。40日もの間執拗に悪魔はイエスを誘惑し続けているのです。そしてその定められた40日が終わったときに、これまでの誘惑に加えてさらに「石をパンに変えてみろ」と誘ったことになります。
ということはこの場面においてマタイ版は誘惑に打ち勝つイエスを浮き彫りにし、ルカ版は悪魔の執拗さを強調していると言えるかも知れません。それを補強するためにルカだけはこういう言葉を敢えて記しています。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」(同13)。「時が来るまで」という箇所は、口語訳では「一時」と訳されていました。悪魔の執拗さはこの荒れ野の誘惑の箇所では終わらない。しつこくイエスに付き纏い続けます。ではイエスを離れた悪魔は時が来てどうしたでしょう。それは22章3節に再び出て来ます「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」。悪魔は決してイエスに言い負けて退散したのではないとルカは言うのです。マタイが「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」(同11)と、悪魔の決定的な負けを宣べているのとはずいぶん違います。
そのように考えてみると、「誘惑」という事柄の本質が見えてくるように思います。イエスはそういった本質的な「誘惑」に生涯晒され続けていたのかもしれないのです。
わたしたちが自分に対して「これは誘惑だ」と感じることはどんなことでしょう。食欲、名誉欲、金銭欲、その他さまざまなことが思いつきます。一方「敬虔な」と前書きされるクリスチャンとして、わたしはそういったさまざまな「誘惑」から決定的に離れ、もはや引きずり込まれることはないと高らかに宣言することが出来るでしょうか。誘惑する悪魔がわたしに対して決定的に負けを認めたのでしょうか。そうではない。洗礼を受けたぐらいでは一つも変わることなど出来なかったわたしが、洗礼を受けたぐらいで悪魔の誘惑をはねつけ、悪魔に決定的な負けを認めさせることなど、出来るわけがありません。
イエスという人が悪魔に対してどういう人だったのかはわからないけれども、ルカは少なくともイエスの生涯に亘ってずっと悪魔は執拗にイエスに取り憑いていて、隙あらばいつでも誘惑をしかけてきていたと書いているのだとすれば、イエスが「祈るときには、こう言いなさい」(ルカ11:2)と言って弟子たちに「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」(同4)と教えられたことの意味もわかります。それは悪魔から執拗な誘惑に晒され続けたイエスの、文字通り日ごとの祈りだったに違いないのです。そしてわたしたちの弱さにいつも寄り添うイエスが、わたしたちにもそのように祈れ、決定的に勝てなくても神が共にいてくださるように祈れ、完全になれなくても神が共にいてくれるように祈れ、というイエスの生き様から示される本当の教えなのだと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。誘惑に打ち勝つことの出来ないわたしを憐れんでください。打ち勝つことが出来ず、常に誘惑に晒され続けています。しかしそういうわたしを、神さま、あなたは見放さないで、いつもわたしのそばにいてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。