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ヨブ2:1−10/使徒3:1−10/ルカ5:12−26/詩編103:1−13
「すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。」(ルカ5:18)
初対面の人に「キリスト教会の牧師をしています」と自己紹介すると、時々「あら、ステキですね」とか「スバラシイですね」などと返されることがあります。
若い頃はそんな風に返されるとカチンときていました。今ぐらいの歳になると、それは社交辞令でしかないことが良くわかるし、ステキと言われるほどステキな人間ではないことを自分が一番良くわかっているわけですから、かなり簡単に聞き流すことが出来るようになりました。それどころか逆に、そういう風に返してくるその人となりを推理してみるなんていう悪趣味も加わるようになりました。
以前も話したかも知れませんが、高校一年のクリスマス礼拝、12月19日でしたが、その日に洗礼を受けることになり、17日の金曜日夜に教会で受洗前の役員会が開かれ、信仰告白をしていくつか質問を受け、受洗が了承され祈られて、バスに揺られて学校の寮まで戻ってきました。そのバス──50分くらいかかったのです──に乗りながらふと「あぁ、これで普通の人ではなくなるんだな」と漠然と頭の中で考えていました。
「普通の人ではなくなる」という思いは一体なんだったのか。キリスト教徒となるということが「普通の人とは違う人になる」と考えていたわけです。そしておそらく、イヤ間違いなく、「良い人」「普通の人より良い人」つまり「普通の人」を見下すような心を持っていたのです。そういう高慢な人間に良くも洗礼を授けたものだなぁと当時の教会のことを悪く言ってはいけません。なんと浅はかだったか、若気の至りなんて言葉ではごまかせない差別性をわたしは自分の中に見出すのです。さらにとんでもないことに、洗礼を受けてわたしはひとっつも「良い人」にはなれなかった。あの差別的な青年が見下していた普通の人であればまだ良い方。中の下か下の中か、ひょっとしたら下の下でしかあり得ないのです。
わたしの「普通の人とは違う人になる」という心理状況を「メサイアコンプレックス」と呼ぶのだと知ったのはずいぶん後のことでした。メサイアコンプレックスとは、「自分には価値がない」「不幸な人間だ」といった劣等感を抱えている人が他者を救うことで自らの劣等感を補おうとする心理のことです。自分が助かりたいという思いを抑圧して、他人を救うことで自己満足を得ようとする。「人を助けるわたしってなんてステキ!」と酔いしれていたのでしょう。「洗礼を受けるってなんてステキ!」「牧師さんてステキ!」。直結しますよね。カチンと来ていたのはそのように誰かから言われることが自分で隠していることに図星だったからです。
「すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。」(ルカ5:18)彼らはメサイアコンプレックスではない。そうではなく、何とかして病気の友をイエスの下に連れて行こうと、非常識な手段を使ったのです。近頃有名なイエスという人間を信頼してみようと話し合って、とにかく行動を起こした。病気の友の力強いサポーターだったのでしょう。
ペトロとヨハネも決してメサイアコンプレックスを抱えていたのではありませんでした。「わたしには金や銀はない」(使徒3:6)と公言している。つまり「ワタシが癒してあげる」と言わないのです。彼を癒すのは言葉通りのメシアであるイエスその人の「名」(同)です。しかし、イエスの名によって癒してもらうためにペトロは「右手を取って彼を立ち上がらせた」(同7)のです。彼もこの「生まれながら足の不自由な男」(同2)のサポーターになったのですね。
わたしたちはおそらく、洗礼を受けたぐらいで某か変われるような人間ではないかも知れません。「普通の人ではなくなる」どころの話ではない。だけど、そんなワタシに決定的に寄り添ってくださる方がいる。その人は今から二千年も前に十字架に磔にされて殺されてしまいました。でもその人の心からなる命懸けのサポートを受けた人たちは、自分もまた隣り人のサポーターに変えられていったのでした。そうやって変えられていった多くの──その殆どは無名の──人たちの連なりによって、今ワタシに決定的に寄り添ってくださる方を知るに至ったのです。その人は、いつかきっと、このワタシを隣り人のサポーターに変えてくださるに違いない。それはなかなか変われないわたしを変えるという、信じられないほど無謀な、恐ろしいほど時間がかかることかも知れません。でも、神さまは、そういう手段を選び、お取りになるのです。
このわたしが、いつの日か神のサポーターに変えられる。それこそワタシへの最大の癒やしなのではないか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが主イエスの手を用いて起こしてくださった人がいて、その人は与えられた祝福を人々に告げ、その恵みに触れた人々が語り継ぎ語り継ぎして今、わたしのもとにあなたの福音が届けられました。あなたが病の人の手を取引あげてくださったこと、そして弟子たちにその務めを委ねられたこと、そのつとめが今、長い時間をかけてわたしたちのところにも伝えられていることを感謝します。私もまたいつの日か、神さまの救いの御業に連なる神のサポーターに変えられることを心から信じ、その時を待ち続けることができますように。そのために今、目の前にある事柄に忠実であることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。