箴言1:1−8/Ⅰコリント4:8−16/ルカ8:4−15/詩編147:1−11
「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。」(ルカ8:4)
宗教には「戒律」がつきものかも知れません。元々は仏教用語ですが、「戒」とは仏の戒めを自発的に守ることを指し、「律」とは僧侶として守る集団規則の中で罰則がある規則を指しているようです。それが広く一般に宗教用語としても通じるわけです。ということは、どんな宗教にもそういう戒と律が存在するということなのかも知れません。
キリスト教で考えると、イエスはほとんどの場合自分が属していた宗教──つまりユダヤ教──の彼の時代に一般に守られていたことを示している以外には、ご自身が「新しいいましめ」として示した「互いに愛し合いなさい」が戒律と言えばそうかも知れません。
一方ルーツであるユダヤ教で考えると、一番に思い浮かぶのは十戒です。文字通り10の「戒」です。
仏教でもユダヤ教でもそうなのだと思いますが、戒律の一番の源を辿ると極めて簡潔なものなのだと思います。ユダヤ教では10個しかないわけです。ところが、神や仏に対して忠誠を誓い、自らをその誓いからブレないように律するためにもともと10個しかないものに尾ひれを付けて事細かく規制する。そして時々「宗教」を「信じる」とはそういった「戒律」の解説書を憶えることに直結するわけです。
例えば「十戒」の中に「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト20:8)という戒めがあります。この箇所には安息日の意味も書かれています。天地創造の由来から7日目に創造を終えて休まれた神に倣い、「いかなる仕事もしてはならない。」(同10)とあります。さらに「安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。」(同31:14)という厳しい掟も書かれています。そこから、ではどれをやってはならないのか、どれなら許されるのか、膨大な解説書がうまれます。「タルムード」です。その「タルムード」の中に「ミシュナー」という注解書があり、ミシュナーの中のモエードの章が安息日と祭りに関する12編構成の書物です。モエードの中でも第1部が「シャバット」と呼ばれる「安息日に禁じられている39の労働について」の書物です。なので安息日を「シャバット」と呼ぶわけです。それは現代でも厳密に守られています。イスラエルの歴史は国が滅んで他国の捕虜になったり、あるいは他国によって属国とされたりという危機の連続でした。そういう繰り返される危機の中でイスラエルが結束を守ったのはシャバットのおかげだったとも言われます。ユダヤの格言に「安息日がイスラエルを守った」と言われる所以です。
今日お読みいただいたルカ福音書には、最初4−8節に「種をまく人」のたとえが記されていて、11−15節にはそのたとえの説明が書かれています。しかし、この説明の部分はイエスが本当に語ったとは思えません。多くの聖書学者もそのように指摘します。ところが3つの福音書の中で一番古いとされるマルコ福音書でもこのたとえとその説明の扱いは同じです。ということは、かなり早い段階から「種をまく人のたとえ」は「畑のたとえ」に改変されていたということなのでしょう。出発間もないキリスト教会はユダヤ教からの圧迫・迫害の中で自分たちの信仰を確立してゆかねばなりませんでした。その必要から、自分に蒔かれた神の言葉を大切に育んでゆくことが信徒の務めなのだと教えなければならなかった当時の教会の事情がみごとに反映されているのではないでしょうか。
しかし今、畑のたとえとしてこれを読むとき、良い地にはなり得ない自分をどう受け止めたら良いのか迷いが生じてしまいます。キリスト教が唯一絶対であって、他の宗教や信者を排除するのが正しいのであれば迷う必要はないけれど、神がそれを望んでいるとは思えない現代を生きるわたしたちは、一向に進展しない伝道や、少子高齢化の波を一番教会が被っている現実の中で、その責任を感じつつもよい畑になり得ない現実に押しつぶされているのです。
だからこそわたしたちは、このイエスの教えの本体にもっと大胆に近づいて良いのではないでしょうか。つまり5節から8節に書かれていることです。種が転がり落ちるのは偶然です。種は畑を選んでいません。そしてたまたま良い地に落ちた種は「生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカ8:8)のです。種にその力があるのです。どこにそんな力があるのかだれも知りません。でもその力によって実際に100倍の実りを生むのです。それこそが神の力なのでしょう。
神のご計画がこの世で実現するのは、神ご自身に力があるからです。どんなに小さい種であっても、神の力が働くとき、その種は実る。わたしが自らを厳しく律し、神に従うという決意からブレなかったから神さまの救いの計画が進む、のではないのです。わたしが信じようが信じまいが、それは道端であり石地であり茨に過ぎない。そんなことに邪魔されず種は実る。わたしたちにとって信仰ということが意味あるものだとするならば、その神の力を信じるかどうかにかかっているのではないでしょうか。戒律を超えて働かれ、そして常に驚くべき結果を歴史に刻む神さまの力を、心から信頼したいのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの力は計り知れず、わたしたちはその全てを解くことなどできません。ただただあなたの力を「恵み」として受け取るだけです。あなたはお造りになったすべてのものを愛し慈しまれる方です。そのあなたが力を用いるのは、わたしたちの救いのためであることを感謝します。どうぞその力を信頼し、あなたを信じ続けることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。