ハガイ2:1−9/Ⅱコリント6:14−7:1/ルカ21:1−9/詩編48:1−12
「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」」(ルカ21:5−6)
私は川崎に住んでいましたが、正月の初詣に川崎大師に出かけたことは残念ながらありません。毎年初詣の参拝客数で関東圏の神社仏閣ではベスト3に入る有名どころです。これほどまでに新年の初詣が年中行事になったのは、京浜急行が「初詣は川崎大師へ」という宣伝を打ったことによると聞いたことがあります。汽車に乗ることが庶民の憧れであって、正月にはその汽車に乗ってお大師さんに詣でるというのが流行したのでしょう。
今ベスト3と言いましたが、2位と3位は川崎大師と成田山新勝寺とが分け合って300万人あまりです。で、毎年第1位が明治神宮でおよそ310万人を集めるようです。
明治神宮はその名の通り明治天皇と昭憲皇太后を祀っている神社です。私は神学生時代にちょっとした興味で、5月3日の憲法記念日に右翼が主催する集会の見物で明治神宮に初めて出かけました。その豪奢なつくりに驚きました。余談ですがその集会に登壇したスピーカーは自民党議員が大勢でした。そして受付には議員や来賓や一般参加者のテーブルがあり、その一角に「国際勝共連合」の受付もありました。30年ほど前から旧統一協会と自民党は密接な関係があった事実を、期せずして私は目撃していたわけです。
それはそうと明治神宮の豪奢なつくりについて、「橋のない川」などの著者として知られている住井すゑさんがお話になっておられたのを憶えています。「みんな豪勢だ豪勢だと言うけれども、あそこはもともと何もない原っぱだった。そこに突然神宮の造成が始まった。樹齢何百年もの大木だとみんな感心するけど、あれだって全部他所からもってきて植えたものだ。」というようなことを話しておられたのです。30年前の体験があったので自分の感覚に冷や水を浴びせられたような、熱狂を戒められたような、強烈な学びでした。
造営する人たちは当然、そういう結果を期待してつくるのでしょう。立派にすればたくさんの人が感心し、信仰してくれる。そしてその芽生えた思いを使わない手はない、と。「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」(ルカ21:5)状況は、まさに私が明治神宮を見て思ったことと同じ、そしていやはやなんとも簡単に造営した人たちに心を操られている証拠でしょう。
エルサレムに神殿を造営するという父ダビデの願いを実際に叶えたのは息子のソロモンでした。ダビデはただ願っていただけでなく神殿建設のために準備をしていました。金3,400トン、銀34,000トン、量りきれないほどの青銅、鉄、また木材、石材、あらゆる宝石、さらに石切工、細工師、各種職工を集め蓄えていたと伝えられています(歴代誌22:14-16、29:2-5)。それを用いてソロモンは7年をかけて神殿を造営したのです。
ところがよく知られているように、紀元前586年にバビロニア王ネブカドネツァルによって神殿は跡形もなく破壊されます。捕囚の民が解放されたのはそれから70年ほど経ってペルシャ王キュロスの命令でした。彼はエルサレム神殿の再建を命じ、その任に当たったのがゼルバベルでした。この建設運動を預言者としてバックアップした一人が今日お読みいただいたハガイです。
さらに、ダビデの子孫でもなくユダヤ人でさえなかったヘロデがローマ帝国の支援を受けてユダヤの領主になったとき、ユダヤ人の歓心を買う手立てとしてゼルバベルの神殿の大改修を行います。お読みいただいたルカ福音書でイエスと人々とが神殿の景観を巡って会話しているのはこのヘロデ神殿ということになります。この神殿が完成したのは紀元後64年と知られていますが、完成からわずか4年、紀元70年9月にローマ帝国によって破壊されます。紀元66年から74年にかけて起こった第一次ユダヤ戦争です。イエスはこの光景を預言したのかも知れません。
神殿はもちろん宗教の中心的機能を持ちますが、それだけでなく祀られているモノの力を今生きている者たちに知らしめる必要があって創建されるのでしょう。だから考えられる最高の最良の材料が集められ、だれが見ても見とれてしまうように麗しく神々しい姿で鎮座するのです。神が住むに相応しいと、そこに確かに神がいると、見る人に信じさせる必要があるからです。
しかし神とはそういうモノなのでしょうか。力の象徴として人々の頭上に君臨するモノがカミなのでしょうか。カミを最大限に利用したいモノにとってはその通りです。しかしわたしたちの信じている神はどうも違うようなのです。「レプトン銅貨二枚」(ルカ21:2)に価値を見出してくださる神です。荘厳であるよりも真実であることを好んでくださる。みすぼらしいけれども、神によって生かされている事実を何よりも喜ぶものと共に神はいてくださる。共に生きることによって神を畏れ神によって聖なる者とされる。私がそのように生きることを最も喜んで臨んでくださるかたこそ、わたしたちの神なのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたは人の手で造られたところにお住まいになる方ではありません。そうではなくあなたにとって価値などないように見えるこのわたしの体を、わたしの心を、あなたは住まいとしてくださるのです。そしてわたしを導いてくださいます。感謝いたします。あなたが住まう神殿として、わたし自身をあなたにお献げすることができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。