出エジプト18:13−27/使徒16:6−15/ルカ5:1−11/詩編101:1−8
「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。」(ルカ5:8)
イエスが弟子を必要とした話しを今回ルカ福音書から聴くにあたって、わたしはつくづくこの弟子の召命をマルコ・マタイからのみ得ていたのだと改めて思わされました。
マルコ福音書で4人の漁師を弟子にする話しは1章16節から始まります。イエスが洗礼を受け、荒野で誘惑を受けた後「時は満ち、神の国は近づいた」(同15)という宣教の宣言があってその次に弟子を集めるのです。マタイにはイエス誕生の物語がありますから、弟子の召命はそれらのうしろ、4章に書かれています。しかし誕生の物語を除けばその配置はまるっきりマルコと同じです。そしてどちらの福音書でも漁師たち4人は「すぐに」(マルコ1:18)イエスに従って行くのです。
最初の弟子が集められるまでにイエスがなさったことは宣教の開始だけです。もちろんヨハネから洗礼を受けて、その際には「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」(マルコ1:10)のですが、多くの群衆に華々しく伝わったわけではありません。ご自分に降ってくるのをご自分でごらんになっただけです。つまりイエスがどういう人でなにをする人なのかは、少なくとも4人の漁師たちには全くわかっていない。にもかかわらず直ぐに網を捨ててイエスに従って行くのです。
マルコ福音書は弟子たちが最後までイエスのことを理解しなかったというあらすじの下にイエスの生涯の物語を配置していますが、それはある意味当然のことです。イエスが何者であるかわからなかったのにそのイエスに従ったのです。自分の予想とか思惑とかとイエスのなさることがズレていく、それが実感だったに違いない。そしてマルコはそれで良い、それが良いと思っている。イエスが十字架にかけられて殺され、誰にも信じられない恐ろしいあり方で復活した。そこに神の御心が示されていると気づいた者は、もう一度福音書の最初に戻り、ガリラヤでイエスが宣教を開始した場面からやり直すことが出来る。福音書全体をそういう構造に仕立てたわけです。
日本基督教団の牧師になるには検定試験を受けなければなりませんが、単にペーパーテストや事前提出論文が問われるだけでなく、むしろ「神がわたしを召している」と思うかどうかが問われていると言うべきかも知れません。それを「召命感」と言います。そういうことを身に帯びたつもりになって牧師という仕事をしているわけですが、だからでしょうか、最初の弟子がイエスによって集められる話しは他人事ではありません。そしてそういう自分を振り返るときに、自分の召命感をマルコ・マタイに寄せて考えているというのが事実なのです。「弟子の召命をマルコ・マタイからのみ得ていたのだ」というのはそういう意味です。
ところがルカ福音書が書く弟子の召命はマルコ・マタイとはずいぶん違っています。ルカにもイエス誕生の長い物語がありますので、弟子の召命は今日お読みいただいたとおり5章にあるお話です。そしてそれまでの章立てはマルコ・マタイとそれほど違っていません。ところが漁師のところにイエスが出向いたときには既に群衆が押し寄せています。そこでイエスはその群衆を教えるために舟に乗るのです。
ルカはその場面を「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」(ルカ5:1)と書きます。もう既に群衆は、イエスが何者であるか知っているのです。そしてイエスの言葉に「神」を見ていたのです。当然その名前を漁師たちも知っていた可能性があります。それだけでなく今同じ舟の中で、つまり他の群衆とは区別されるイエスの直近で、イエスの語る言葉を聴いているのです。それはシモンにとってどれ程大きな衝撃だったことでしょうか。
そして話はそれでは終わらなかった。漁師たちだけはその後イエスの驚くべき御業を自分たちの現実の中で味わうことになりました。夜通し何も獲れなかった魚が、イエスの言葉に従ったところおびただしく獲れたのです。イエスの言葉と行いとを直近で味わったシモンは「イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。」(同8)のでした。
おびただしい魚が捕れた話しを、ヨハネ福音書も語っています。同じように夜通し働いたが獲れなかったのに、岸に立つ人が「舟の右側に網を打ちなさい。」(ヨハネ21:6)と言うとおりにすると、153匹もの魚が捕れたのです。しかしヨハネがこの話を書き留めたのはイエスが復活した後の、しかも福音書としては増補版である21章でした。死と復活というイエスの力の源が明らかになった後の話を、ルカは漁師たちの召命の場面に置いている、成立年から考えたらヨハネの方がその話を復活のあとに置き直したと見るべきでしょうか。いずれにせよ単に魚が捕れた奇跡物語ではなく、この物語にイエスの力の源が明らかになっているということです。そういう意図でヨハネもルカもこの奇跡物語を用いているのです。
イエスはペトロの罪深さを問いません。その罪の故に彼が不適格だとは言わない。その罪にもかかわらず、神に仕えイエスを証しするつとめへと召し上げている。その働きのためにルカは、後に12人に加えさらに72人を派遣したと記します。神の力の広がりのために遣わされる数は、キリスト教の歴史二千年でどれくらいになったでしょう。そして今また、今もなお、イエスの声はわたしたちにも響いているのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカ5:10)。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。神さまのご計画の証人として立てられた、夥しい数の名前を思い起こさせてください。名前の知られている人も、全く名前を知られていない人も、しかしあなたの証人として召され、生き、御もとに参りました。そして今わたしたちをも、あなたは召しておられます。その事実を認め、受け入れることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。