ヨシュア3:1−17/使徒10:34−48/ルカ3:15−22/詩編104:24−30
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)
四谷新生教会はバプテストの伝統を重んじる教会であることはおそらく間違いないでしょう。既に日本基督教団という合同教会が1941年に創立し、その中にあって敢えてバプテストの伝統に立つ教会を1951年に設立したのです。この年、たとえば北海教区で旧日本基督教会が一致して教団を離脱するなどが起こっておりましたので、その中で敢えて日本基督教団の中にバプテストの伝統を選び取って教会を新規に設立するということは、珍しいことだったのかもしれません。
バプテストの伝統に立つということは、例えば洗礼を全浸礼にするという見かけ上の形式の話だけではなく、洗礼を受けるとはどういうことかということをバプテスト派の理解に沿って今も大切にしている、ということなのでしょう。ではバプテスト派が洗礼をどういうふうに受け止めてきたのか。身近な資料で見ると、例えば1998年5月に出された「「教団新生会」・バプテストの伝統」というパンフレットの一番最初にこう書かれています。少し長くなりますが引用してみましょう。
「バプテスト教会は、本人の自覚的信仰が与えられていないうちに、バプテスマを施してしまう教会の典礼のあり方(すなわち、幼児洗礼)を排除し、バプテスマを受ける受領者本人の信仰に基づくバプテスマ、すなわち“信仰者バプテスマ”を実践して、自らの教会を再形成したのでした。
ところで、私たちが生ける主に出会い、福音を信じて新しく生まれ変わるのは、バプテスマ(いわゆる“水のバプテスマ”)を受けるからではなく、それ以前に、聖霊の働きにより新しくされるからなのだと、バプテスト教会は考えました。これを“聖霊によるバプテスマ”と呼びます。そして、聖霊により新生した者だけが、信仰の告白も出来るようになるわけですから、基本的には、信仰告白した者こそが、始めて“水のバプテスマ”を受けることが可能となると考えたのです。」
聖霊によって新しく生まれるという体験を自覚する者が洗礼を受けることに意味があるのだということが一つ、しかし水のバプテスマが人を新しく生まれ変わらせるのではなく、その前に聖霊によるバプテスマによって新生が可能になるという順番であるゆえに結果的に信仰告白した者だけが水のバプテスマを受けることが可能になる、ということを述べています。その通りだと思います。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」(ルカ3:21−22)とルカは書きます。みんな洗礼を受けているのだけれど、「聖霊が鳩のように目に見える姿で」降ってきたのはイエスにだけだったというわけです。ヨハネ福音書でイエスがニコデモと対話するシーンがあります。そこでイエスが仰った言葉はとても印象的でした。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:8)。イエスご自身が「思いのままに吹く」霊によって生かされ、歩んでいるのです。それはあのイエスご自身が洗礼を受ける場面で周りの者たちみんなに証明された出来事でしたが、それだけが証拠ではなく、生まれて8日目に既に老シメオンによって伝えられていたことでした。先週見たとおりです。
そしてわたしたちは、そのイエスの名前によってバプテスマを受けたのです。思いのままに吹く霊によって生かされたイエスの名によって、執り成しによって、新しく生まれ変わらせていただいた、その事実を信じますと、水による洗礼をこの身に帯びたのです。それは「わたしが救われること」への渇望ではありません。だって私たちは水で洗礼を受ける前に既に霊によって聖霊を受けている、つまりとっくに救われていたのですから。
ではなぜわざわざ水で洗礼を受けたのでしょう。それはわたしもまたイエスのように、思いのままに吹く霊に活かされて歩みたいからです。生きる意味が示された、わたしにも生きる意味があるということに招かれた、使命へと招かれたということなのでしょう。
新しい年が明けました。主の年2023年。使命に招かれた者として、それぞれのいのちの場で、一緒に精一杯生き抜きたいと願います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたはわたしに生きる意味を与え、また使命を与えてくださいました。その聖霊を、今またわたしたちに満たしてください。あなたの霊に満たされてこの一年を歩んでいることが確信出来ますように、わたしたちの信仰を支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。