少子化対策に関連する国の予算は2021年ベースで6.1兆円、そのうち5.8兆円が子育て支援に使われているという。だけど実感としては少子化に歯止めがかかっていない。つまり、何かボタンの掛け違いというか、問いの立て方が間違っているのではないかという気がする。
少子化が問題なのだから、子どもを産むことを支援すれば良いわけだ。そして、子どもを産んでほしいのであれば、結婚する数を増やせば良いわけだ。そしてそのためには、安心して結婚できる、8時間働けば普通に暮らせる社会をつくれば良いわけだ。
「男女共同参画社会」とか「女性の社会進出」とかいう言葉は全くその通りで異論を挟む余地がないように見えるから、なんだか簡単に釣られてしまう。聞き心地良い言葉が発せられるときこそ主目的を隠していると思うのがへそ曲がりのわたし。男性の家事・育児への協力も同じ響きを感じる。
外で働く者が家事育児するためには、残業しなくても生きていけるルールが必要だし、子どもを産んで育ててもらうためには、専業でそれに取り組む男女に、他で働かなくても食べていけるような支援が必要だろう。その観点から今の児童手当が充分なのかどうか検討したら良い。でも絶対そうはしない。そうしないでおいて「少子化対策」と言い続けているのだから、やはり主目的が違っているとみるべきだ。
人が生きて、他の人と社会をつくる。人あっての社会であり、人あっての「国」。その順序は決して逆になってはならない。ところがどうしたって「政府」とか「政治」は、「国」あっての「人」という順番でないと動きが取れない不自由なものらしい。しかし、人が生き難いのであれば社会が変わるしかないのだ。ひょっとしたら私たちの「国」は、今その最前線に追い込まれているのかも知れない。少なくとも「子育て」とは目先のことではない。この先百年も千年も見据えた、まさに国家論だと思うんだなぁ。