日本基督教団発行の「教師の友」という雑誌に「幼児のためのおはなし」というコーナーがあって、来年4月から6月までを担当することになった。
既に原稿は入稿したのであとは著者稿のためのゲラ待ち。とりあえずホッとしているのだけど、360字という字数制限の中でしかも幼児に理解してもらえるような言葉遣いで聖書にどれだけ迫れるのか、なかなかムズカシイけれども楽しい作業だった。
例えばイエスの弟子たちが安息日に麦を摘んで律法学者たちから咎められたという話し。安息日は神さまが世界の創造を終えて休まれた日故に人も休んで神を礼拝する日としたこと、麦を摘むことは安息日にしてはならなかったこと。けれどもイエスは咎めた律法学者に「安息日は人のためにある」と言い切ったことを淡々と書く。「大事なことは“神を礼拝する”ことだ」と。
人は「決まりだから」を前提とするが、イエスは安息日の意味を前提とした、という解釈だった。そしてそう考えた途端に例えばこの幼稚園での日々の保育が思い浮かぶのだ。
子どもたちが朝登園して身支度を調えるのは幼稚園での生活習慣。朝、門に立っていると時々「早く準備が出来たね」という声が聞こえたりする。保育者の声かけは子どものやる気をサポートする大事なことだけど、ちょっとへそ曲がりな園長はこういう声かけに反応する。身支度を調える場面で重要なのは「自分を整える」ことなのであって、それが「早い」とか「遅い」とかはあくまでオプションではないか。この場面での声かけは「できたね!」で十分ではないか、と。
わたしの思うとおり他者を動かすことは出来ない。強制的な力(地位がもたらす権力とか金力とか)でさせることは出来たとしても、それを「自主性が育った」とは言えないし言ってはならない。だけど案外やっちまうんだよね。
イエスの教えの意味深さは、こういうところにもあるのだな。