ゼファニヤ3:14−18/Ⅰテサロニケ5:16−24/ルカ1:5−25/詩編85:2−14
「主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」(ゼファニヤ3:15)
今日はゼファニヤ書という馴染みの浅い旧約聖書が取り上げられています。ゼファニヤについては1章1節に紹介されていること以外にあまり知られていません。ただその紹介の記事には4代前の先祖まで書き留められています。数いる預言者数ある預言書の中でもこのようなことは唯一のことで、書かれたとおりであるとすればユダの王ヒゼキヤの玄孫(やしゃご)ということになります。その家系がある程度の財産と社会的地位を持っていたということの証しかも知れません。そういう意味ではヨシア王の時代によく知られていた家の出身者だと考えられます。紀元前640年はヨシア王の治世の始まりですが、その頃に預言者として活動した人でした。
ヨシア王はいわゆる申命記改革を行った王です。神殿で律法の巻物が発見されて王は懺悔し、神のみ旨に聴き従うことを誓う。列王記下22章から23章にそのことが記されています。ところがその改革の途中でヨシア王はメギドの戦いでエジプト軍によって殺されてしまいます。するとエルサレムの指導者たちは、ヨシアの子ヨアハズを父の代わりに王としますが、在位わずか3ヶ月。ヨシア王の改革は完全にストップし、王国もエジプトの勢力下に置かれてしまいます。そしてさらに3代後にエルサレムはバビロンの前に陥落するわけです。
もはや王国の末期です。人々の心もまた時代の争乱の中で落ち着きを失っていたに違いありません。そんなユダ王国末期にヨシア王が行った改革の短い時代は、本当に奇跡的なことだったのだと思います。そのヨシア王の改革を後押しし、あるいは導いたのがゼファニヤだったのです。
彼の預言は先ずユダに向けられます。時代が大きく動こうとしているこの時ですから、ユダの人々にも世界全体が不安定になっていることは良くわかっていたことでしょう。しかし人々は神がユダに特別な力を与えて、周囲の敵を一掃してくれると信じていた。実際そのような甘い夢を語る預言者もたくさんいたのだと思います。そのユダの人々に向かってゼファニヤは、確かに神は不従順な者を罰するが、その裁きはユダにも及ぶと告げるのです。
人々が偶像を拝み異邦人の習慣に従い、権力者はその権力を濫用しているユダの社会を神は放っては置かない。むしろ神は周辺の国々を倒すのではなくその国々を用いてユダを裁く。その時神は助けてはくださらない。それが「主の日」なのだというわけです。
そしてもう一つの中心は、そういう悲劇的な運命を辿るであろうユダにあって、新しい民を神は興してくださるだろうという預言です。その新しい民に勝利を与え、戦争によって散らされた人々、捕囚となる人々をユダの地に連れ帰ってくださる。その奇跡を周辺の国々は目にするだろう、というものでした。実際南王国ユダがバビロニアによって滅ぼされるのは紀元前587年頃。主だった人たちは皆バビロニアで捕囚の民となる。その捕囚の民がバビロニアから帰還するのはさらにそれから50年あまりを経ていました。ゼファニヤの預言は彼の口から出て100年以上を経てから現実のものとなったのです。
さて、今日の礼拝主題である「先駆者」としてわたしたちが思い描くのはバプテスマのヨハネでしょう。ヨハネはルカ福音書によればイエスの親戚にあたり、イエスより半年早く生まれた人です。しかし実際に親戚関係だったのかどうかは定かではありません。一方イエスはご自分の宣教を始める前にヨハネの集団に属したのだということは、ヨハネから洗礼を受けたという聖書の記事が証ししています。
ヨハネの教団とは当時のユダヤ教にあったエッセネ派の中のグループだったのではないかと考えられています。エッセネ派については聖書には出て来ません。しかしおそらく世俗化した祭儀宗教のサドカイ派や厳格な律法順守を強制するファリサイ派に抗議して、都市ではなく荒野で、修道生活をしたのが始まりで「敬虞な人々(ハシディーム)」と呼ばれた人たちの一派だと考えられています。ファリサイ派やサドカイ派という大きな宗派に批判的に対抗することこそエッセネ派の存在意味でした。そしてイエスはその影響を受けたのです。
ゼファニヤは苦難の中にいる者からイスラエルが再び興されることを預言し、エッセネ派はユダヤ教の現状を憂えて小さな集団をつくり、イエスはそれを自らの運動に受け継いだ。それが神の言葉を預かる者たちの共通した意識だったということでしょう。預言者とは神の言葉を預かるのだからその意味でこの世にあっていつも先駆者であり続けたし、先がける人たちだったために迫害を受けたのです。
ゼファニヤ書の今日お読みいただいた次の節にはこうあります。「見よ、そのときわたしは/お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い/追いやられていた者を集め/彼らが恥を受けていたすべての国で/彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。」(3:19)。弱く小さく価値がないとされ人々からはじき出されていた人たちを神さまは「集め」、「誉れを与え」「その名をあげさせる」と言うのです。それはそのままマリアの賛歌(ルカ1:46−55)であり、ザカリアの預言(同68−79)です。主の天使はヨハネの誕生を預言し彼の働きをこう言いました。「準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:17)。
先駆者はそのつとめを終えました。今「準備のできた民」が「集め」られているのです。わたしたちは今、何者にも絡め取られず主の再びおいでになることを準備を整えて待っているでしょうか。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。救い主をお迎えするために悔い改めの日々を歩むわたしたちに、あなたは大いなる喜びの日を与えてくださいました。今日はその象徴としてピンクのろうそくを灯し、あなたへと心を向けています。わたしたちがこの世の力にも闇にも何者にも絡め取られず、あなたのみを見あげることができるよう、支え導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。