出エジプト3:1−15/ヘブライ8:1−13/ルカ20:27−40/詩編77:2−21
「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」(出エジプト3:8)
神がクレーンゲームのように人間の歴史に直接手を下すことはないと、教育週間の礼拝で語りました。神が何か意図を持って歴史に介入するときは必ず人の手や足を用いるのです。その典型が今日読まれた出エジプト記の主人公モーセでしょう。
モーセはたくさんの事情を抱えていました。由緒正しいとか相応しいとかまさにリーダーになるべくしてなったとか、そういう評価はモーセには相応しくないと思います。彼はたくさんの問題や事情を抱えた苦悩するひとりだったのです。しかしたとえそういう人であっても、神は彼を見捨てないのです。繰り返しますが、見込みがあるとか本当は優秀だとか、人には見えない隠された才能や能力があるからモーセが選ばれたのではありません。彼は普通のひとりだったのです。その普通のひとりが普通ではない生涯を歩むことになったのは、神が彼を見捨てなかったからです。これはとても重要なことです。
つまり、「エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」(出エジプト3:7)という神のイスラエルとの関係は、モーセと神との関係によって代表されているのです。わたしたちはこの物語についてたくさんの情報をもっていますが、その情報を全部棄ててこの物語を読むときに、神が執拗にモーセを招いていることに先ず気づきます。どうして神はそんなに執拗なのか、それは神が単にモーセとの間に個人的な繋がりを持とうとしているのではなく、そもそもイスラエルとの間に交わした約束故に、先ずイスラエルの声に応えることが何よりも重要なのであって、そのためにモーセが選ばれている。関係を代表するとはそういう意味です。神はモーセを捨て置かないようにイスラエルも捨て置かない、その御心が、モーセを選び招くという行為に端的に表れているのです。
神はイスラエルの嘆きに応えて彼らを救い出します。どうして神はそこまでイスラエルに肩入れするのか。これでは普遍的な愛の神ではない、依怙贔屓の神ではないか、と言いたくなります。そう、神さまは普遍的な愛の神ではない。依怙贔屓の神です。神はご自身が「愛する」と決めた者を愛する。そしてその理由は選ばれる側にはないのです。どうして彼をその民を選ぶのかと問うても無駄です。神が「愛する」と決められたからです。
神はイスラエルの人々を「子」と呼ぶのです。新共同訳では10節に「わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」という命令がありますが、「人々」と訳されたこの言葉は本当は「子」という言葉です。「わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出しなさい。」(岩波版聖書)「わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」(聖書新改訳2017)。つまり、エジプト脱出の奇跡が起こる遙か前から、イスラエルはずっと、神にとって「我が子」だったのです。だから「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(3:15)と呼ばれるのです。歴史があるのです。「子」としてきた歴史、「子」とされてきた歴史です。イスラエルの選びは、神によって既に──ひょっとして彼らの誰も知らない内に──定められていたのです。
彼らはそれを知らない。それはまるで、今ここにいるわたしたちが、実はずっと以前から神によって選ばれていたのだということを、わたしたちが知らないでいるように、それと同じように、です。
おもしろいことに神の解放のわざはイスラエルをエジプトから脱出させただけでは終わらないのです。そうではなく新しい場所、新しい土地へと導く。そこまでが含まれてはじめて「解放」なのです。
後にイスラエルの民衆はモーセに食ってかかります。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。」(14:11)。そうではない。神は新しい土地をちゃんと用意し、そこへと彼らを導くのです。「この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」(3:8)。
なんかヘンですよね。イスラエルだけでなく他に6つの民族が既に住んでいる土地を「与える」と神は仰っています。不思議ですね。解放して新しい場所に移すなら、まだ誰も住んでいない新天地こそ相応しいのではありませんか。イギリスにとっての新大陸アメリカ、日本人にとっての新天地北海道、あるいは満州のように。でも地球上のすべての土地にはそこで暮らす人々がいるのです。誰も住んでいない広くて豊かな土地なんていうものはどこにもないのです。むしろ既に多くの民が寸ているその場所に導くことこそが神さまの解放のわざ、救いのわざなのだと示されているのではないでしょうか。
深い意味を感じます。わたしたちは人と人との間で、神に導かれた者として生きる必要がある。侵略者として征服者としてではなく。既にいる人と人との間で一緒に生きる。それが神の御心なのだということでしょう。
わたしたちはほとんどいつも間違い続けます。神はすべての人との共存をこそ望んでおられる。キリスト教が世界を征服することを求めておられるのではない。そもそも力を振るって世界を征服することを望んでおられるのでもない。その事実のためにわたしたちは選ばれたのかも知れません。神がモーセと共に偉大な業を行ったように、わたしたちとも共にいてわたしたちのために神となってくださる神。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(同14)とは、そういうことなのかも知れないのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたはイスラエルの神となり、モーセの神となりました。そしてアブラハム・イサク・ヤコブの神であり、わたしの神になってくださり、わたしの敵のための神にもなってくださいました。そのことを憶えて心からの感謝と賛美を、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまに捧げます。アーメン。