創世記18:1−15/ローマ9:1−9/ルカ3:1−14/詩編105:1−11
「サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」」(創世記18:15)
私たちは「アブラハム物語」というとすぐさま、「偉大な信仰者の物語」というふうに思うわけです。ところが、丹念にアブラハムの物語を読んでみると、決して「信仰の父」「偉大な父」という側面だけが記されているわけではないということがわかります。むしろ不完全な姿、未成熟な姿も隠さずに示しているのです。
アブラハムが物語に登場するのは、神の招きに応えて旅を始めるところからです。よく言われることですが、この時アブラハムは75歳だった。これが今で言うところの何歳にあたるのかは本当のところは分かりません。現実から見れば彼には神の招きに応えて旅に出るだけの体力・気力があったということなのでしょう。一方、のちに100歳になった時彼は自分が年寄りであることを自覚していますから、それから見た75歳が決して「若い」ということではないこともわかります。にもかかわらず「不安定」にすぎない「旅」「神からの召命」を自身に引き受けたのでしょう。アブラハムはその不安定をまず引き受けた、それが最初の彼の信仰の発露だった。
しかし創世記はアブラハムが未成熟であったことも記しています。その未熟のため彼は数々の事件を引き起こし、数々の事件に遭遇します。それをみごと解決したわけでもないのです。ところが、不思議なことに、未成熟で不十分で、失敗を重ねるにもかかわらず、彼は祝福された旅を続ける。祝福により多くの家畜や金銀を持つようになる。それどころか、あまりにも豊かになりすぎたために、これまで一緒に旅を続けてきた甥の家族とこれ以上一緒にいることができなくなったりもする。定住する場所を分けて、甥の方が見た目良い土地を選んでしまい、自分は荒野に残らざるを得なくなる。これも祝福されたが故の出来事でした。苦難と祝福とが同居している、というか、まぁわたしたちにも起こり得る、「それが人生なのだ」ということかも知れません。
信仰ただひとつを持って旅立ったと考えられているアブラハムに与えられたものは「大いに祝福する」という約束でした。確かに物質に恵まれ文字通り祝福を受けています。けれども、どんなに祝福を受けても、宝を持って死ぬことはできません。彼らが得た祝福をさらに受け継ぐべき者、彼らの信仰を引き継ぐべき者、祝福の総決算たる、希望そのものである「子ども」という存在だけは、いつまでも与えられなかった。そしてもう時間がなくなってしまっていたのです。
なんとも不思議な話です。幾度となく神はアブラハムに「子孫を与える」と約束してくれたし、その約束が反故にされるような何か不祥事をアブラハムが犯した訳でもない。むしろ、遠くふるさとハランを旅立ったあの日から、神をないがしろにしたりおろそかにしたり、まして自分自身が神になることなど決してなかった。それなのに、約束を与えられてもその実現を見る時間がもうない、ほとんど残されていない。その悲しみ、その絶望を想像してみるのです。
ところが、その諦めかけていたどころか、すっかり諦めていたアブラハム夫妻に、彼らの思いを超えて主はご自分の民をそこから起こされる。可能性ゼロのところからすべてを始めると神の使いは言うのです。サラが笑うのも無理はありません。アブラハム以上に彼女は現実を、女性である自分のからだに背負っていたのです。待って待って、もはや諦めていたその時に「来年」と告げられたのです。
それは笑うしかなかったでしょう。喜びの表れではなく嘲笑、あきらめの笑いです。あまりにも常識を外れているその言葉に、これまで待って待って待ち続けさせられたサラが示した正直な反応でしょう。
その上、例えば彼らは今子どもが与えられると誓われたことに対して、では昨年までの自分たちと今年の自分たちとの間に何も変化がないということも十分に自覚していたことでしょう。つまり、アブラハムもサラも、今、「子どもが与えられる」と新たに強く約束されたとしても、それが自分たちのなにがしかの働き──昨年よりもより強い信仰に生きたとか、これまで以上に神様を礼拝したとか、考えられる以上に献金したとか、神様に褒められて当然、褒美をいただいて当然と胸をはれるようなこと──を何一つしていないという自覚が、むしろ二人を戸惑わせたのではないでしょうか。
今日は「聖徒の日・永眠者記念礼拝」です。ここに記憶されているわたしたちの信仰の先達はみんな、敢えて言ってみればアブラハムのような生涯を生きたのです。一人ひとりアブラハムに引けを取らない波瀾万丈の物語があった。それがどんなに難しいことなのかをこの方たちが証ししています。しかし同時に、それがどんなに恵み豊かなことであるのかもまた証言しているのです。
信仰の先達を覚え、その生涯を思い、まことの神を礼拝するわたしたちに、神さまは今一度問います。「『神は可能性ゼロのところからでも歴史を始められる』という事実をお前は信じるか」と。そのことに懸けてみる、そうやって歩んでみることを決意したとき、神さまは本当の笑い「イサク」をわたしたちにも与えてくださる。ここに憶えられている先達たちは、結果的にそういう歩みをしてきたのです。その列に、わたしもまた連なりたいと願います。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの御心あなたの御業をわたしたちは理解できません。いつでもあなたはわたしたちにとって想定外なのです。わたしの立てられる予定をあなたはいつも凌駕します。そして信じられないかたちで、あなたは御心を、しかし確実にこの世に実現なさるのです。その事実を受け入れ、神さまを信じることが出来ますように。地上の歩みを終えてあなたの下に安らぎを得ている信仰の先達たちの証言に、心を通わせることができますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。