先日、幼稚園の合同礼拝でお話をしたのは新人のI先生。聖書の箇所はサムエル記から「少年サムエル」のお話だった。
幼稚園の先生たちはほぼクリスチャンではないわけで(キリスト教保育の幼稚園・保育園・子ども園はどこも同じような状況かも)、例えばキ保連の園長会などでそういうことが「問題」にされたりもする。尤もこれは保育業界だけの話ではなく、キリスト教を母体とする事業はあらゆるところでクリスチャンの人材難だろう。そしてそれが「問題」とされることもしばしば。
だが、そもそもこの国のクリスチャン人口なんて「百万人」と呼ばれたのはとうの昔。「1%」と言われた時代もあったが、現実今はどうだろう。心許ないことだけは確かだ。であればここは考え方を転換して、「クリスチャンではない人たちによって担われるキリスト教保育には、だからこそ意義がある」と思うべき。
ちょっと力みすぎ。話を戻して、少年サムエルに神さまが声をかける件で「みんなもお祈りするときは神さまとお話ししているんだよね。神さまとお話ししたことある?」と問いかけた。するとどうだ、「な〜ぃ」という声が挙がる挙がる (^_^;
教師たちが順番に礼拝でお話しをするのに備えて職員会議で聖書研究もする。「こういうふうに話したい」とそれぞれが提案してみんなで協議し、最終的に「いいんじゃない」となって子どもたちに降ろされる。今回もその手順が踏まれ、どういう話しをするのか皆見当付けていた。だがその時誰も子どもたちのそんな反応を予期しなかった。
なんにつけ子どもは正直。「お祈りは神さまとお話しすること」と牧師は言って来たし、そう聞いても来た。でもそういうわたし自身が一回一回のお祈りに毎回そういう思いをホントに抱いてきたのかと、子どもたちが問うている。
子どもたちはあの円らな目で見抜いている。神さまは天遙か高くにではなく、目の前に子どもの姿をして立っておられたわけ。