出エジプト12:21−27/ヘブライ9:23−28/マルコ14:10−25/詩編96:1−9
「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブライ9:26)
今から12年ほど前、2010年9月26日、ひとりの牧師がその仕事を失いました。横浜にある日本基督教団紅葉坂教会の北村慈郎牧師は、紅葉坂教会の宣教の取り組みの中から未受洗者も聖餐に与るという教会の決断通りを実行していることが問題であるとされ、戒規免職処分が下されたのでした。北村牧師の上告により開かれた審判委員会が「免職は妥当」との最終判断を下したのが9月26日です。
わたしが山口の防府教会にいた頃、附属幼児施設の卒園生でその頃はもう成人年齢だった男の人がいました。彼は言葉を話すことが出来ません。ウーっと唸ることと手の動きで何とか意志を表現することしか出来ません。ところが園児だった頃からの習慣で日曜日には必ず礼拝に来るのです。お父さんお母さんを早くから起こして、二人に付き添われて玄関まで来て、あとは一人で礼拝が終わるまで過ごすのです。この人のお世話を長く続けてきた役員が、「オレたちの誰より彼は礼拝に皆勤しているのに、聖餐式にも与れないのはオカシイ」と言い始めました。直ぐに役員会で取り上げられ、やがて教会総会を経て、防府教会の聖餐式に、洗礼を受けていない彼にも加わってもらうこと、その他の方々で洗礼を受けていないけれどもイエスが救い主だと信じる人は聖餐に与って良いと決めました。オープンが良いかクローズドが良いかの単なる机上の論議ではなく、彼と20年以上に亘る交流の中から教会が決断した出来事でした。この決断に至る20年を、彼と共に生きてきたこの日々を、だれが「聖餐を軽んじている」とか「いたずらに混乱を招いている」と批判できるでしょうか。
そしてきっと紅葉坂教会でも同じような教会の牧会的配慮と宣教の積み重ねがあって、決断されたものだったに違いないのです。しかし日本基督教団はそれが規則に抵触しているとして北村牧師を免職にしたのです。
教会で行われる聖餐式では「制定の言葉」の朗読が必ず行われます。それは大体使徒パウロの言葉です。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:23−26)。ところが当然ながらこの制定の言葉には、誰が聖餐に与るのが正しいのかは書かれていません。だからだと思います、四谷の聖餐式では敢えて読みませんが、27節以下を聖餐式のさなかに読む教会もたくさんあるようです。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(27−29)。
でもここでパウロが言っていることは、相応しいかどうか「自分をよく確かめ」ろ、ということです。礼拝に集っている自分以外の誰かが相応しいのかどうかお前がジャッジしろとは言っていません。さらにわたしたちが本当に自分自身が相応しいかどうか確かめたとしたら、少なくともわたしは、畏れ多くてもったいなくて、とてもとてもイエスの体や血を「取れ、飲め」と言われても尻込みしてしまいます。自分が相応しいと胸を張ることなど出来ないからです。
ではいったい誰が、それに与るのに相応しいのでしょう。今日お読みいただいたマルコによる福音書は緊迫する場面を描いているのですが、しかしどうにも不思議な光景がそこに書き込まれています。「弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。」(マルコ14:16−17)。ここで分かることは、最後の晩餐にイエスが伴われたのはご自身の他12人だったということです。その直後に「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(同18)とイエスは言いますが、その者を食事の席から追い出したり、その者が席を離れたりはしていません。しかも、12弟子は誰も「父と子と聖霊の名による洗礼」など受けていません。
ということは、少なくとも聖餐式が倣う最後の晩餐の出来事には、洗礼を受けた者──少なくとも三位一体の神の名による洗礼を受けた者──は一人もおらず──イエスご自身はヨハネから洗礼は受けましたが当然ながら三位一体の神の名ではありません──、それどころかイエスを裏切り彼が十字架にかけられるのを手助けした者が招かれている、という不思議な光景がここに書かれているのです。
ということは、いったい誰が聖餐に与るのに相応しいのか、という問いへの答えは「イエスが招いた者」としか言いようがなく、その者の能力とか、その者の信仰とか、その者の正義感とか、その者のこれまでの行状とか、そういった属性は一切無関係なのだという事実です。イエスはご自分を裏切る者──ユダのことではなく、私のことです──にさえも、そのからだと血を分け与えてくださった。「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」(ヘブライ9:26)とは、その事実をわたしたちに気づきなさいと教えてくれていることなのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの前にわたしはふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者です。それなのにあなたはわたしに向かって「取れ、飲め」と仰います。パンをとり、杯を飲むことを通してあなたに従ってゆくのだと自覚しなさいと招いてくださるのだと知りました。ふさわしい者には一生なれないかも知れません、しかし神さま、あなたに生身のこのわたしを差し出しますから、どうぞ受け入れてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。