イギリス女王の国葬の様子は日本でも衛星放送でライブ中継されたらしい。ちゃんと見ていたひとたちからは「美しかった」「素晴らしかった」という感想が聞こえてくる。たぶんそうだったのだろう。そしておそらくそこには亡くなった女王自身のお人柄が大きく影響しているのだろう。
彼女は英国王だった。英国という国が「王」を必要としている事実の上に彼女の地位はあったのだろう。そしてThe Church of England(英国教会–聖公会)における「至高の統治者」(The Supreme Governer)であり、また信徒の代表でもあるそうだ(西原廉太さんから教えられた)。そういうかたの葬儀だったのだ。単純に「国葬」だったと日本の基準で言うには余りあるだろう。
イギリスのこととはいえやはり引っかかるんだよね、どうしたって今週「国葬儀」なることが行われるから。与党・自民党内からも今回の「国葬儀」に対しては疑義が出ているらしいが、総務会長は「粛々と、今回はまず行うと。そのうえで、これから。党としても、議論すべきだというご意見だったと思います。」と発言している。つまり彼らはこれからも(議論の上で)「国葬」をやり続ける気なのだ。
「国葬」とは、一人の人の「死」を国が意味づけることである。一億数千万人のすべてについてそれをする訳はない。「国」側にとって意味ある(つまり「国」にとって扱いやすかったり得になったりする)者を「国」が「葬る」のだ。「国」にとって意味ある人は死んでからまで「国」に酷使されるということ。国に殉じたと「特別」に(つまり恩着せがましく)認定する。クリスチャンだって「殉教」なんていう言葉を後生大事に使っちゃうもんね。
公務中の交通事故で自衛官の夫を亡くした中谷康子さんは、護国神社合祀拒否の闘いを今も続けている。公務員だろうと一般人だろうとその死を意味づけるのは本人や遺族だ。国だろうがそこに手を突っ込むことは許されない。まして彼のだぞ!