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2022
25Sep

「自分を捧げる」滝澤 貢牧師

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申命記15:1−11/Ⅱコリント9:6−15/マルコ14:1−9/詩編112:1−10

 「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(Ⅱコリント9:15)

 コリントの信徒への手紙2の今日お読みいただいた箇所は、言ってみれば「募金趣意書」です。つまり、パウロがコリントの教会の人々に対して、エルサレム教会を助けるためにみんなで募金しよう、と呼びかけているのです。

 コリントの街は11日の説教で話したとおり、二つの港の間を行き来する物資と人々の交流により発展した商業都市でした。現代でも「繁栄」は人々を惹きつけますが、惹きつけられる人々は必ずしもいわゆる成功者ばかりではありません。これから成功を夢見る人もいるだろうし、あるいは挑戦が失敗となって失意の中に留まっている人たちも大勢いたであろうと思います。

 パウロはそういう街に伝道したわけで、その活動を支えてくれるパトロンによって教会もパウロその人も守られていたのでしょう。教会自体が裕福なのかどうかはつまり構成員が裕福なのかどうかにかかっているのですが、現代の教会がそうであるようにパウロ時代の教会も、構成員がある層に限られるなんていうことはないわけで、社会を横断する、あるいは断面図的に様々な人が連なっている教会だった、それが当たり前だったと思います。だから、パウロが呼びかける募金活動が簡単なことだったとは思えません。11日にお話ししたとおり教会にはユダヤ化を推進する人たちもいたわけで少なからず対立構造が生じてもいたのです。

 しかしパウロは、だからこそエルサレム教会を支える献金をやろうではないかと呼びかけるのです。このことを通してコリント教会とエルサレム教会とが互いに強く結ばれることこそ大切なのだと訴える。単に援助する側される側という上下関係で優位に立つのではなく、このことを通してお互いが神によって豊かにされるのだ、と。

 わたしは山口県・防府教会で、立場を比喩的に言えばエルサレム教会になったような経験をしました。

 防府教会は1906年創立で、1950年に建築された趣のある礼拝堂で保育施設「聖光園」を併設した教会でした。わたしが赴任した1999年9月に台風18号に襲われ、礼拝堂は激しい雨漏りに見舞われました。これまでも礼拝堂・牧師館を補修するために直近15年間で延べ500万円以上がつぎ込まれていましたが、この時はもはやこのまま建物を使い続けることは難しいほどの衝撃でした。

 わたしが赴任する前の牧師は2代に亘って西中国教区総会議長を務めた牧師たちでした。特に山田守牧師は1957年4月に新卒新任として赴任し、1984年に現職のまま突然死されたのですが、1973年には教区総会議長になって6期12年議長を継続した人です。その後任は曽根原穹牧師でしたが、曽根原牧師も教区議長を務めました。そういう教会ですから西中国教区においても山口中分区においてもリードする教会であったし、そうであろうとしました。ところがそういう教会でもどうしたって総工費予算5千万円に上る礼拝堂改修・牧師館新築事業を自力で賄うことは出来なかったのです。

 そこでこの事業を進めるにあたり、全国募金を教会としては初めて行いました。全国の教団の教会はもとより、防府教会の縁のある方々や幼児施設聖光園の卒園生・関係者に至るまで、小さな細い線をたぐり寄せるように募金のお願いをしたのです。結果450万円の全国募金予算が1365万円寄せられたのでした。

 2000年9月17日に行われた「教会堂改修落成感謝式並びに牧師館献堂式」でわたしは、「多くの方々から予算を遙かに超える献金を戴いた。わたしたちの教会はおそらく初めて「他者から助けられる」という経験をした。これは貴い、得がたい経験だった」と式辞で話しました。

 助ける経験は尊い行為です。ですが、助けられる経験はそれ以上に大きな変化を自分にもたらすものなのだということを、わたし自身もまたこの時に本当に味わいました。簡単に言い表すことは難しいけれど、敢えて一言で言うならば、「謙遜」という言葉の意味を心に刻んだ出来事でした。

 パウロはこの「捧げる」という行為を通して、エルサレム教会とコリント教会とを強固に結びつけようとしたのです。今また霊感商法や違法献金問題が人々の耳目を集めていますが、献金とは本来、パウロが企てたようなこういう目的のために行われるものです。単なる金銭の授受ではなく、自分を捧げる行為なのだと言われるのは、そのためなのですね。

 このわたしを神さまに捧げる。礼拝とはその意志を持つ者たちが一緒に神さまを見あげる行為です。ですから人間の側から礼拝の最も中心になるのは「自分を捧げる」象徴としての献金=奉献なのです。

 祈ります。

 すべての者を愛し、お導きくださる神さま。今日もこうしてわたし自身をあなたに捧げる決意を新しくする時を与えられました。感謝します。わたしには自分の価値さえも分かりませんが、あなたの思うように用いられる時、自分の思いも力もこえる者となることが出来ます。そのわざを通してあなたを証しする者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.78 死を意味づける

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