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2022
11Sep

「やっぱり愛が必用だ!」滝澤 貢牧師

  • 今月の説教
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ホセア11:1−9/Ⅰコリント12:27−13:13/マルコ12:28−34/詩編62:2−13

 「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」

(Ⅰコリント12:31)

 コリントという町はギリシャの南端、地中海に突き出たペロポネソス半島のいちばんくびれた部分にあります。

 コリントは古来から繁栄した町です。東にサロニコス湾、北西にコリントス湾が広がっています。これが約6キロほどの陸地で繋がるわけです。コリントは名前の通りコリントス湾、つまりイオニア海に面しているのですが、イオニア海とエーゲ海とを物資が流通するためにこの6キロ程度の陸地を継いで輸送するルートが古くから確立していたのでしょう。それによって繁栄を得ていたわけです。

 繁栄しているということは、様々な文化や異なる種族、一儲け企むアヤシイ者たちも当然いたと思います。日本の温泉地には必ずあったスマートボール、ピンボールの一種ですが、これのことを「コリントゲーム」と呼ぶそうです。今のパチンコみたいにその結果によって景品や賞金がついたでしょう、そういう今で言えば風俗営業で大いに繁栄していた町でもあったということでしょうか。

 そういう繁華街にパウロは伝道したわけです。最初はユダヤ人の会堂に入ってそこで福音を語り出したのですが、その内容は生粋のユダヤ人には受け入れ難いことでしたが、逆に異邦人にとっては極めて喜ばしい知らせに違いなかった。そういう全く正反対の評価を受けるような言説を、アヤシげな人々まで含む雑多な町コリントで語るのですから、それがその町の人々にどのような影響をもたらしたのか、想像がつきます。そういった騒動はパウロがコリントを離れてからも続いたのです。様々な人が自由に出入りするコリントならではのことだと思います。

 で、パウロを慕うひとたちから彼にコリントの教会の窮状が訴えられ、それに対してパウロは時に涙を流しながら教えを伝え続ける。それがコリントの信徒への手紙です。1と2とありますから二つの手紙のように考えがちですが、特に第2の手紙は少なくとも二つ以上の手紙が合体されているし、それ以前の手紙についても言及されているので、かなり頻繁にやりとりがあったということなのでしょう。

 そういうコリントの実情を頭の中に置いて今日の箇所を読めば、どうして「最高の道」(Ⅰコリント12:31)として「愛」についてくどいほどここに書き連ねるのか、少しは分かりますよね。想像できます。

 キリストに従うということでは一つであると信じるわたしたちの決意は、コリントの状況を批判できるほど確かなものでしょうか。ひょっとしたらコリントと似たようなこと、同じことをわたし自身の中に芽生えさせるのではないかと思います。

 ミッキー・ロークが主演した映画「フランチェスコ」に描かれるアッシジのフランチェスコは、自分たちの活動が聖書に忠実であろうとしたものの、それが多くの人に受け入れられ修道会への入会希望者が国を超えて増えることによって、修道会自体が揺らぐ様が良く描かれていました。その混乱の中でフランチェスコは悩み、一人山に隠り神の声を求めますが、何もない。そんなある日、その手足に聖痕が現れる。彼はこれこそ神の声だと天を仰ぎ神に感謝するのです。

 それは自分の歩んできた道が神によって肯定される喜びなのですが、そしてだからこそそれはこの上ない喜びなのですが、フランシスコ会は彼が望んだような徹底主義が避けられて、代わりに穏健派によって運営されるように変質していきました。「キリストに従う」というたったそれだけのことが、決して一筋縄には行かないということをフランチェスコの生き様はわたしたちに示しています。それに比べたら「凡人」でしかないわたしたちの「従う決意」がどれ程危ういものでしょうか。推して知るべし、なのかも知れません。

 フランチェスコは、所有こそ様々な問題の根源だと考え、「所有を棄てる」ということを文字通り実行しました。その「所有」の中には財産ばかりではなく精神的な豊かさも知的な豊かさも含まれています。「修道士に学問や書籍は不要」、その替わり人間にとって本当に必要なものは「愛と平和だけ」だと主張します。清貧の思想と平和主義とは彼の中で分かちがたく結びついていたのです。

 パウロがコリントの教会に対して「最高の道」として「愛」を説く。わたしたちにとってはあまりにも有名でよく知られた「愛の賛歌」ですが、それが説かれざるを得ないことにこそわたしたちは目を向けるべきなのかも知れません。わたしたちにはいつでも、当たり前すぎるこの「愛」が説かれ続けなければならないのだ、と。わたしたちにとっては、あるいはとってこそ、愛は必用なのです。説教題の文字の通り、わたしたちが生きるために必ず用いなければならないものです。崇高な精神ではなく、必用だと分かっているからです。そういうところに、わたしたちは今立っているのだ、と。

 祈ります。

 すべての者を愛し、お導きくださる神さま。「愛」についてよく知っていて「愛」についてたくさん語ります。しかし「愛」を実行できません。生きる上で必ず用いなければならないその「愛」を、わたしは未だにわたしのモノに出来ていないのです。まだそんなところに立っているわたしを、神さまどうぞ赦してください。そして導いてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。

四谷快談 No.76 信じがたいのは「ウソ」だったからなのね

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