イザヤ5:1−7/使徒13:44−52/マルコ12:1−12/詩編40:2−12
「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。」(使徒13:49)
この夏は「宗教と政治」の問題が毎日テレビで取り上げられていました。安倍元総理が銃殺されるという事件が参議院議員選挙投票日に近い金曜日だったので、当初は選挙に絡む「民主主義への挑戦」とか「テロを許すな」だとかと騒がれ──政権与党は文字通りそんなスローガンで選挙戦を戦いました──ましたが、選挙が終わってみると、容疑者の家族が統一協会への献金で全財産を失って家族も崩壊し、容疑者は安倍元総理がその宗教のシンパだと確信して、警備の隙を突いて銃撃したという事件でした。民主主義への挑戦でもテロでもなんでもなく、言ってみれば個人的な恨みからの犯行だったわけです。ところが憲政史上最長の首相在任歴を持つ人が反社会的な新興宗教のシンパだと容疑者に確信させる言動をとっていたことはやはり大きな問題だったわけで、「政治家がそういう団体と関係を持つことはいかがなものか」と騒がれました。ところが蓋を開けてみると極めて多くの政治家がこの団体の力を借りていたこと──単に一方的な貸し借りではなく、それがお互いに利益を享受出来る関係だった──で、世間は騒然としてしまったわけですが、しかし当の政治家本人たちは、それが何で問題なのか、本当のところはわかっていらっしゃらないようです。それ自体がつまりズブズブの関係だったことの証しになっている。「問うに落ちず語るに落ちる」の典型です。
1995年当時、いわゆるオウム真理教が大きな社会問題となって、キリスト教会も漏れなく「宗教はキケンだし怖い」という国民的感情の標的になりました。キリスト教会もことあるごとにその弁明に追われました。それ以前から教会の看板や教会案内や週報に「わたしたちは統一協会・ものみの塔・エホバの証人などとは関係ありません」と自分たちの正当性・正統性を記述しなければならない強迫観念があったのですが、オウム真理教事件以来一般的な宗教離れ感情は確かに増幅したように見られます。
しかしこの国で考えてみれば、太平洋戦争直後のキリスト教ブームの数年以外に、プロテスタント宣教150有余年の歴史の中で、キリスト教が順調に足場を固め、この国で大いに受け入れられたなんていう歴史は一時もないことに気づきます。だからこそ、そういういわば辛酸を舐めていたキリスト教会だからこそ、太平洋戦争に向かってこの国が国を挙げて転がり落ちてゆく時に、「神道・仏教と並ぶ宗教だと国によって承認された」ことを宗教団体法の成立に当たってみんな喜んだのです。そういう厳しい日々を歩んできていたのだということでしょう。
さらに視点を広げて考えてみれば、キリスト教の歴史がそもそも軋轢の歴史でした。イエスが十字架で殺されたこともまさに軋轢が生んだことでした。キリストの死後、託された使徒たちの歩みも軋轢の連続でした。パウロは当初はキリスト教を迫害することに使命を持ちいのちをかけていたのです。その彼がダマスコ途上で何かの出来事を経てキリストを伝える者に生まれ変わったと言い出した。それは二重の裏切り行為でしかなかったわけで、ユダヤ教側にもキリスト教側にとっても危険視されたのです。
ローマ帝国が地中海を中心に到る所に権力を伸ばしていった影響で、ギリシャ語が公用語となりそれを操ることの出来るひとたちによって担われた福音も世界中に広められていったのですが、使徒言行録を見る限りそれは簡単なことではありませんでした。当初は帝国各地にあったユダヤ教徒たちの集団から、後はローマ当局にも迫害に遭い、歴史上夥しい数の殉教者を生み出しました。帝国自体の要請によってキリスト教がローマ国教となってからも、世界中に軋轢が広まっていったのです。それはキリスト教が常に被害者だったということではなく、むしろ国教となって以後は加害者となった側面も多かったと思います。そうやって世界を征服しようと企てたのです。
わたしたちはもちろんキリスト教の教えを「良い教え」「正しい教え」と理解しています。でも一つの立場を「良い」「正しい」とするとき、必然的にそれとは違う立場を「間違っている」「悪い」と決めなければなりません。「正しい」ハズなのに「良い」ハズなのに、との思いが、その思いこそが軋轢を生んでしまう。
今日お読みした使徒言行録は、この箇所から福音がユダヤ人を離れて異邦人に広がってゆく、そのスタートの物語です。「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。」(13:48)とその喜びが記されています。そしてそれは今申し上げたとおり新たな軋轢の始まりでした。
神さまは、そのご計画を進めるために人間の腕を用いられるようです。オートマチックで神の計画が進んでいくというのとはどうやら違うようなのです。そのご計画が愚かな人間によって担われる、担われなければならないことを、一体神さまはどのような思いで見ておられるでしょうか。わたしたちの賢さではなくわたしたちの愚かさを敢えて用いようとなさる、それが神さまなのですよね。それはつまりわたしたちがわたしたちの愚かさに気づくことがどうしても必用だと神さまがお考えなのだということですよ。わたしたちがそう思うまで、わたしたちが心からそれに気づくまで、神さまのご計画はそうやって進んでゆくのでしょう。「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。」(同49)。ここに簡単に記されている「こうして」という言葉の重さに打ちのめされます。しかしだからこそこの重さに意味があるのだと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。このわたしたちにあなたの救いのご計画が委ねられていることを、わたしたちが正しく受け止めることが出来ますように。そのためにはわたしたちがわたしたち自身の愚かさに気づかなければならない、それを神さま、あなたが忍耐強く待っていてくださることを感謝します。どうぞわたしたちのつたない歩みを支えてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。