娘の出産に立ち合った連れ合いが、生まれて間もない赤ん坊の顔をまじまじと眺めながら「こういうふうに眺めるの、初めて」と言った。あれっと一瞬思った。わたしには20数年前の記憶があったから。
だけど考えてみたら当然だった。彼女はその時産後の手当を受けていたのだ。生まれたばかりの娘のへそを切った。体重や身長が測られきれいに体を拭かれ産着を着せられ、最初にわたしの手の中に預けられた。立ち会い出産ならではで一部始終を共に過ごした。すべての手当がすんでようやく痛みや興奮も収まって初めて産んだ我が子の顔を見る妻とは決定的に違っている。
週末にようやく帰ってきた婿殿が、退院して初日家族3人で初めて過ごした夜が明け、「男って気がつかないものですね」とポツリ言う。そうだよね。ICTの進歩でその場にいなくてもすぐに画像では見られるけれど、実際に対面したのは生まれて1週間後。そしてすぐに赤ん坊の世話の手伝い。気づかないことや分からないことだらけのハズだ。生まれたての子を最初に手にしたわたしだって分からないことだらけだった。一方その瞬間を見られない妻(たち)はそれでも直ぐにいろいろなことを一手に引き受けるのだ。それが出来るということが「気がつかない」男にとっては決定的に違っていて、驚きなのである。
妊娠・出産という出来事は、この「決定的に違う」ということを舐めつくす出来事でもある。どちらが良い/悪いとかどちらが損/得とか、そういう対比(つまり相対的)ではなく「決定的」に「絶対的」に違うという現実。その違いに打ちのめされるしかない出来事だと思う。
そしてたぶん「男」はそういう違いを見せつけられることが根本的に「イヤ」なのではないか。だから制度的社会的格差を後付けして「父権制」を強いたりする。そういう闇を自分の中に見せつけられる出来事でもあるなぁ。