昔、東北で悲しい事件があった。
キリスト教会の牧師の息子が、学校で同級生をはずみで殺してしまったのだ。傷害致死。ちいさな田舎町だったので大きなニュースになった。悲しかったのは事件の被害者加害者のこと(だけ)ではない。近隣のキリスト教会から「迷惑だ」の声が多数(?)挙がったことだ。迷惑な理由は「宣教に差し障る」。
同じ東北にキリスト教主義学校があった。学長はとても物静かな情熱の女性だった。女子教育に命を懸けていた。しかし経営が危うくなり、キリスト教とは全く縁のない学校法人に身売りすることになった。その時も教会会議で「混乱は迷惑」「もっと教会が指導的立場をとるべきだ」などの意見が挙がった。
今、元総理が殺害されるという驚くべき事件によって、かつて社会に大きな衝撃を与えた宗教団体が再び注目されている。多額の献金による信者の破産が今回の事件の引き金だという。
この宗教団体と政治との結びつきにも注目が集まる。昔々、憲法記念日に明治神宮で行われた自民党関係の集会に出たことがあった。受付のテントに政党関係者と一般参加者が別れていたのは当然として、もう一つ「勝共連合関係者」という受付列もあった。実際私がそれを見ているわけで、その宗教団体が言う「無関係」だの「外郭団体との見分けが付かなかったのだろう」との記者会見の言葉を鵜呑みにするには無理がある。
種々問題点が見出される団体であることは私のちいさな経験からもその通りだが、その団体が問題があるということが、わたしたちカッコ付き「正統」キリスト教団体の免罪符になるものではないということを心に刻むために、昔東北で体験した二つの話しをここに書き留めた。「正統」キリスト教諸団体も、実に簡単に他者を「迷惑」だと切り捨てる。自分たちが無謬だとでも?
「真理」などを扱うのが宗教ゆえ簡単に他者を切る。だが、切開されるべきは先ず己だ。それは何をおいても前提にあるべき。