エレミヤ23:23−32/ガラテヤ5:2−11/マルコ8:14−21/詩編52:3−9
「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」(ガラテヤ5:9)
今読みましたガラテヤの信徒への手紙5章には、分かりにくい言葉が書かれていました。5節です。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。」この翻訳がどうも何を言っているのかわかりにくいなぁと感じていました。新共同訳聖書になる前、口語訳ではこう書かれています。「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。」。新共同訳がわかりにくいのは、人々が何を待ち望んでいるのかです。「義とされた者の希望」と訳している。口語訳では「信仰によって義とされる望み」です。パウロはこの箇所で、イエスをキリストと信じる者はその信仰が義とされる根拠なのだ、それは他の何かによってとって替えられるものではないのだ、と言いたいわけです。律法を守ること、そのシンボルとして割礼を受けることをその替わりにするのであれば、イエスをキリストと信じる信仰は無意味になるからだ、というのがパウロの言いたいことでしょう。
因みに他の聖書ではどう訳されているのか見てみました。岩波版の聖書では「なぜならば、私たちの方は、霊によって、信仰による義の希望を抱いているからである。」とあります。「私たちの方は」とあるのは、その反対側に「あなたがた」がいるからで、その「あなたがた」は「律法によって義とされ(ようとす)る者たち」と言われています。対置されている構造がハッキリしていますよね。聖書新改訳2017では「私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。」となっています。新共同訳ととても似ていますが、こっちの方がずっと意味が通りやすいですね。いちばん最近完成した聖書協会共同訳では「私たちは、霊により、信仰に基づいて義とされる希望を、心から待ち望んでいます。」となっています。日本語の語順でこの言葉を言い表そうとしたら、聖書協会共同訳の方がわかりやすいです。わたしたちが使っている新共同訳は、少なくともこの箇所では日本語としてこなれていない印象です。「義とされた者の希望が実現すること」では、時性が混乱してしまっています。「義とされた」は通常日本語では過去形なのにもかかわらずそれがまだ「実現」していないというわけです。「実現すること」は未来形、これから起こるように「切に待ち望んでいる」となる。だから一度読んだだけでは理解できにくい。過去に起こったことをこれから起こるように待ち望むという表現。まさに信仰というモノはそういうことなのですがしかし、日本語でこれを一読してその意味が理解できるかと言われれば、残念ながらそうなりにくい表現なのですね。
パウロはユダヤ人キリスト者の中にある思い、譬えて言えば「真のユダヤ人でなければイエスキリストの救いはわからない」というような思いが、改宗したキリスト者たちに対して、律法──そのシンボルとしての割礼──を守らなければ真の救いはないという圧力となっている現実を認められなかったのだと思います。そういう圧力を「わずかなパン種」(同9)と表現しているのが秀逸です。「日本人は本音と建て前を使い分ける」とよく言われますが、パウロの前にいるガラテヤの信徒たちの中に同じような使い分けをしている人たちがいたのではないかと思います。
表面上はパウロの言うとおりに従いながらもどこかにユダヤ教をおろそかには出来ないという思いが、「わずかなパン種」のように心にあって、それが何かの拍子に膨らみ始める。やがて無視できない大きさになってパウロたちが宣べ伝える真理を邪魔し、見えにくくさせてしまう。だからパウロはそうなってしまう前に、極めて強い口調でその思想を糾弾したのでしょう。
パン種と言えば、ユダヤ教で最も大事な「過越の祭」は「除酵祭」ともよばれます。文字通り「パン種を取り除く祭り」です。過越祭を迎える前にユダヤ教徒の家は大掃除されるそうです。日本の年末の風景みたいです。徹底的に掃除されて過越祭を迎えるのですが、それは出エジプトの物語にあるとおり、種入れないパンを急いで焼いてエジプトから脱出するときに持っていったという歴史的故事を思い起こすためですよね。だから、完全に掃除することで「わずかなパン種」さえも残さず綺麗にする必要があったのだと思います。それだけ彼らの日常の暮らしで「わずかなパン種」が粉全体を膨らせてしまうということを経験済みだったのでしょう。同じ菌(の株)を使い続けないことはひょっとしたら食品衛生的な観点からも意味があったかも知れません。
「わずかなパン種」は、現代日本で生きるわたしたちにとって一体何を意味するでしょう。わたしたちの周りにも、きっとそれが危険と認知できないようなかたちで「わずかなパン種」があふれているのかも知れません。わたしたちの心を全く完全に変質させてしまうような何か。
では、危険を認知するためにどうしたらよいのか。それは歴史に学ぶこと以外にないと思います。遙か昔の歴史ではなく、自分が生きてきたわずかな時間──歴史と呼ぶにはあまりにもおこがましいような、しかしわたしたちはそれを簡単に忘れてしまうし、出来事によって簡単に変質させられてしまいます。歴史に学ぶということは、もっと簡単に言えば「忘れない」ことです。人がひとり亡くなっただけで、その人の評価ががらりと変わってしまう現実をわたしたちは今味合わされています。その人の歴史を簡単に変質させる力こそが「権力」と呼ばれる力です。その権力に対抗するために、そのためにわたしたちは、歴史に学び、思い起こし続けなければならないのだと思うのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。わずかなパン種が粉全体を膨らませることを知っていたパウロは、それを利用するのではなくそれを警戒しました。今生きているわたしたちの周りでも、わずかなパン種を利用して歴史を変質させてしまう力があふれています。自分もまたその力に振り回され、あるいはその力に憧れさえ抱いています。あなたがそんな私を戒めてくださることを感謝し、復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。